◆Zwei tropfen◆









軍用の端末でラーガンと連絡を取ったフリットは直接話したいことがあると持ちかけ、基地内の落ち合い場所へと向かっていた。
焦りが行動に出てしまい、少しばかり急ぎ足だったフリットは角を曲がったところで誰かとぶつかりそうになった。が、知っている手に両肩を支えられて寸止まる。

「なに慌ててるんだ」
「……ウルフさん」

スクランブルでもないのに僅かに息の乱れがあるフリットにウルフは首を傾げる。
フリットは今はまだウルフと顔を合わせる心の準備が出来ていなくて、心臓が縮む思いを抱いた。どうするべきか考えるよりも先に身体が動いて、フリットはウルフから一歩離れ、彼の手から逃れる。

距離を取られたことでウルフはフリットの胸部を視認した。平らだが、それは本来のものでないと知った。だから、しんどいだろうにと表情を歪めた。
けれど、それを別の意味で捉えたフリットは視線を逸らして俯きがちになる。責められているのだろうと。
直接言葉にして言ってこないのは、深入りしないのが大人の付き合いというものだと知っているからだ。そう、思った。

「その、ラーガンに話があって」
「そうか」

彼奴には頼るんだなと、ウルフはフリットに気付かれない吐息を一つした。
フリットはいつもと変わらないトーンのウルフの声に安堵したものの、素っ気なさを感じて顔を上げた。直後、若草色の髪がくしゃりと撫でられる。
いつもの癖で払いのけようと腕を上げたが、フリットはそこで、はたりと動きを止めた。それはウルフの手の感触と動きを追うための無意識からなるものであったが、それを否定するようにフリットはウルフとの距離を測りかねているのだと自己完結しようとしたところで。

「……すまん」

動きを止めたフリットに怖がらせたかもしれないと思い至ったウルフはフリットから手を放し、フリットの顔を見ずにそう言った。
暫くは顔を合わせることが無くなるのだから、それまではいつも通りにしてやるべきだと思っていた。しかし、軽率に過ぎた。
役不足という言葉が脳裏を過ぎり、ウルフはフリットを横切っていく。

それをフリットは迷い無く振り返った。何かが噛み合っていないと、フリットが自分の中で完結させようとしていたことを終わらせてはいけないと思った故の行動だった。
左右に繋がる通路へ至る角を曲がらずに、真っ直ぐの通路を進んでいるウルフの姿はまだある。だから。

「ウルフさん!」

芯の通った声で呼ばれれば、顔を出し始めた戸惑いを覆して振り返ざるを得ない。けれど、期待などをしているわけではなかった。
静かに立ち止まって、ゆっくりと此方を振り向いたウルフにフリットは己の手を握った。そこにあるものを確かめるように。

「後で、話したいことが、あります」

一度視線を落として、何か思い悩んでいる素振りがあったフリットが顔を上げて、何かを決意した強い瞳で自分を見て、言った。
話したいことが、今まで隠していたそのことではないとはっきり分かった。別のことだが、フリットにとって、どうしようもなく抗ってでも譲れない何かであるのだ。
だから、彼女の瞳からウルフは目を離せなかった。

「いいぜ。後で、な」
「はい。後で」

断られることを端から想定していない。確信めいた、反射に近いフリットの受け答えに、ウルフは今までの蓄積が何もかも無くなったわけではないのだと感じた。
ウルフが向かっている方角から、フリットは後で部屋を訪ねに行くことを約束して、先約から話を通すためにウルフに背を向けた。

昨日まではそうでも無かったのに、華奢だと感じ始めた背中から視線を外して自室に向かおうとしたウルフだが、自分の背後にあからさまな気配を感じてうんざりと振り向いた。

「何なんだ、お前ら」

この基地のモビルスーツ部隊に所属する三人の顔は見慣れたものだ。十字型の分かれ道になっている通路で、ウルフとフリットがいた直線に対して垂直となる通路部分に彼らは潜んで先程の会話に耳を欹(そばだ)てていたらしい。
今になってそれに気付いたのだから、ウルフは自分も大概余裕が無かったようだと内心毒づく。フリットもあの様子だと気付いていなかっただろう。彼女の身体のことについて何か訊くようなことをしなくて正解だった。

「大尉の耳にはまだ入っていませんか?」
「専(もっぱ)らの噂ですよ。隊長がバディに手を出したって」
「しかも、二人とも変に意識したような雰囲気じゃないですか」

含みある顔をしているが、捲し立てて来るようなことはなく。一人ずつが順にそう言ってきた。
肩を落としたウルフは、自分とラーガンがあの場で別れてから、それほど時間は経っていないはずだと呆れる。そう誤解されても…実際、誤解とも言い切れないが、そう受け取れる発言や態度をしていた自覚はウルフとてあった。
けれど、それにしても広まるのが早いように感じた。チームの雰囲気は良好であるし、連携が卓越していると受け取るべきか否か、迷うところだ。

「本気じゃねぇよ。からかっただけだ」

真剣な顔をしていることの多いフリットの表情を崩したいと思っているのは事実である。だから、特別なものなど無いと含めて、ウルフはこの話はこれで終わりだと彼らに背を向けた。

三人はウルフの言葉を鵜呑みにはしなかったが、広まっている噂を丸ごと鵜呑みにしているわけでもなかった。
下世話な噂は軍だろうが会社だろうが何処にでもあるものだ。二人の関係についても艶聞(えんぶん)が立っている。ちなみに、そのへんのことで仲間内で賭け事もしていた。
その事実確認を今、彼らはしているというわけである。
以前、別の賭け事をしているところをウルフには一度見つかってしまったが、賭博に理解のあるウルフは今度混ぜろと言っただけで、後日賭け事に混ざったことは一度もない。
だから、本気じゃないと言ったのも元レーサーらしく、パフォーマンスの一種か何かだとしか受け取れなかった。












レストルームの監視カメラを気にしたラーガンの行動に、フリットはそのカメラの映像には数日前の映像が管理室で流れるようにしておいたことを告げる。
それを聞いてラーガンは用意周到だなと、改めてフリットを評価する。しかし、そのくらいでなければならない。

「しかし、その仮定が正しかったとして、お前はどうするつもりなんだ?」
「幸いなことに、ディーヴァもトルージンベース所属になります」

ガンダムの有用性はAGEビルダーが共にあってこそ証明される。本当ならば切り離したかったであろうが、弁の立つグアバランに敵う立論を挙げられる者はいなかったということだ。首相が一枚噛んでいるとはいえ、全ての人間が政府側に付いていないという証拠だ。
それでも、必要最低限の人数よりも少ないと感じるディーヴァの乗組員らの数はラーガンからしても引っかかりを覚えるもので、何か仕掛けられているのではないかと感じられた。

「クルーの人員を増やしたいと思ってます」

そう言ったフリットに、ここが自分に対する本題だなとラーガンは肩に力を入れた。
既にディーヴァの乗艦を命じられている者は決まっている。日数の関係で人事関係を書き換えて必要な人材を掻き集めるのは不可能だ。

「四十時間か」

あれだけの説明で何を求められているのか察してくれたラーガンに流石だと思う。しかし、頭を抱えたラーガンにやはり急な話過ぎたとフリットは肩を落とす。

自分ではこの基地内にいる者の中で、以前ディーヴァのクルーだった者達を二日もない時間で呼び集めるのは無理だとフリットは断言出来る。整備班の者とは互いの認識が出来ているが、その他の立場にあったクルーとは会話を交わすこともごく稀であったからだ。
けれど、ラーガンは顔が広い。周囲のことにも目を届かせてチームワークを築いていた。
フリットが知る限り、人員確保を頼めるのはラーガンしかいなかった。

「すみません。やっぱり、無理ですよね」
「なぁ、フリット。それは俺も含まれてるのか?」
「ディーヴァの人員ですか?」
「あぁ」
「はい」

間を置かずに頷いたフリットだが、ラーガンの意思を聞いていなかったと、不安を表情に滲ませた。けれど、それに対してラーガンは苦笑する。

「それじゃあ、まずは俺が確保されたわけだ」

あ、と表情を持ち直したフリットにラーガンは頷く。続いて、人員確保の件もどうにかしてみると告げる。
まずはミレースに声を掛けてみるかと思ったが、もう一人気に掛かるのがいたとラーガンはバイザーの擦り傷に指で触れた。

「ウルフの奴はどうする?」

逡巡してから口を開いたラーガンに何があったかは聞き及んでいるらしいと、フリットは首を横に振ってラーガンに手間は取らせないと伝える。

「ウルフさんには、オレから言います」

此処に来る前にすれ違い様伝えたいことがあると言ったばかりだ。だから、フリットは気にした風でもなく先程ウルフと交わした内容を伝えた。
けれど、ラーガンは納得仕切れていない顔を改めない。ウルフとあんな会話を交わした後だ。正直、フリットをウルフと二人きりにさせたくないと思っている。

「手を貸してくれと言うつもりなのか」
「……そうです」

即答出来なかったのは、ウルフが協力してくれるかは本人の意思に委ねるべきことだったからだ。それでも、彼の力を借りたいのはフリットの本心だった。戦力としても心強いし、女だと知られてしまったなら、それはそれで承知している者にはその場で肩を張って隠し通す必要がなくなる。
それに、

「ラーガンだって、ウルフさんには教えてもいいって言ってたじゃないですか」

事あるごとにラーガンは言ってくれていたのだ。それを拒否していたのは自分で、あのように知られるくらいなら、もっと早く言ってしまえば良かったとも今は思っている。
だから、ラーガンが難色を示しているのはフリットとしては意外だった。

「そうだ。そうなんだがなぁ」

頭を掻き毟るほどラーガンが苦慮している姿は珍しく、言葉を選びかねているから同じような言葉を二度も繰り返してしまっていた。
しかし、こういったことを遠回しに、しかもフリットに気付かれるような言葉選びは出来そうもないとラーガンは一度唸ってからフリットを真っ直ぐに見た。

「不躾けなのを承知で言わせてもらいたいんだが」
「何ですか?」
「抱こうとしてきた男の部屋に、お前は平気な顔で行けるのか?」

言われ、意味を理解するのに時間が掛かった。それは十秒にも満たなかったが、当意即妙なフリットにしては長く掛かった方だと言えた。
動きが止まっていたが、息まで止めていないだろうかと心配になったラーガンが「フリット?」と名を呼べば、彼女は俯いた。

そこまで聞いているかもしれないという憶測はフリットにもあった。けれど、そういう捉え方をされているとは思いもしていなかったのだ。そう言われてみれば、自分がこの後ウルフの部屋を訪ねに行くのは正常な感覚を持っていればあり得ない事だと分かる。
それでも、フリットは先程ウルフと顔を合わせたときに恐怖心が無かったことを異常だとは思えなかった。

無意識に自分の首を手で押さえたフリットが、手を当てた向きへ身を竦めるような仕草をした。
それを見て、ラーガンは瞬く。

「フリット。お前、もしかして」

ラーガンの声に力を抜いて顔を上げたフリットは核心を得ていない表情をのせて、言葉の続きを待っている。けれど、ラーガンは自分が導き出した予想にそれが良い兆候なのか悪い兆候なのか判別出来ず、言葉を切った。
昨日までの自分なら、それを受け入れられただろうが、タイミングが悪い。

ラーガンが口を閉ざしてしまい、言いかけていた言葉を聞くことが出来ず。フリットは苦い顔をしているラーガンにウルフのことは諦めろと言われているように感じた。

「ラーガンの許可がなくても、ウルフさんには声を掛けます」

だから、そう言った。けれど、ラーガンの反応は予想に反して、仕様がないと我が儘を聞き受ける顔で軽く肩をすくめたものだった。
自分が間に入っていきたいとラーガンは思うが、余計に拗(こじ)らせる原因を作ってしまう可能性もあった。フリット自身が気付いていない様子であることも原因の一つだ。
今は弟分だと言わないといけないのかもしれないが、フリットが自分にとって可愛い妹のような存在であることは違えようがない。
ウルフに任せられるかとラーガンは自問してみるが、否という自答がすぐに返ってきた。
彼は面倒見が悪いわけではないが、ウルフとフリットを個別で見た場合、相性が悪い。戦場で発揮される実力は互いに高いからこそ合わせられる部分は多いが、それを差し引いたらどうであろう。
フリットとウルフが戦いに身を投じる理由と目的は噛み合っていない。二人が別のものを見ているのは、火を見るよりも明らかだ。相互理解はしているが、相反し合ってもいるのだから。

けれど、やると一度決めたら撤回しようと考えないのがフリットだ。それを良く知っているからこそ、ラーガンはもう彼女を止めようとはしなかった。此処で説得に時間を掛けるよりは人員確保に時間を割いた方が得策だと結論を出したからだった。












ラーガンとの話し合いを終えたフリットを自室に招き入れたウルフは奥でゆっくり話すかと提案したが、フリットは首を横に振る。

「いえ、そんなに時間は取りませんから。此処で」

出入り口の近くで良いと言うフリット本人は別にウルフを警戒しているわけではなかったが、ラーガンに言われた通りに退路を確保しているだけだった。それに、話す事柄は一つだけだ。本当に時間を取る気はなかった。

「それで、話ってのは?」

壁に背を預けて横目にフリットをとらえて、そう促(うなが)した。彼女は一拍以上の間を置いてからウルフに告げる。

「―――力を、貸してくれませんか」
「どういう意味だ?」

的を射ない抽象的な言葉の中の核心を導き出そうと、ウルフは促しを重ねる。

「連邦の上層部とヴェイガンが秘密裏に取引をしている可能性があります」

ウルフは特に驚いた様子は見せなかった。レースでもスポンサー同士の裏取引というものは存在していたし、レーサー達の足の引っ張り合いなど汚い手段は後を絶たない。どのような手であっても欲に塗(まみ)れて汚れるものだ。
分かっていると割り切っていたが、ウルフは最後のレースで嫌気がさした。だからこそ、誓った。自分は何ものにも塗られはしないと。
軍人になってもその誓いは違えない。モビルスポーツ界よりも汚れているであろうそこに足を踏み入れたのは、己の戦場を過酷にする為の一種の挑戦だった。
マゾヒストと呼ばれようが何だろうが関係ない。外なるものに目を逸らさず、挑発してやろうと思ったまでだ。
だから、フリットの言葉の内容には今更感があった。しかし、それを良しとしているわけではない。

「首相も幇助(ほうじょ)しているかもしれません」

流石にウルフも眉を顰めた。フリットの“トルージンベース”行きは首相命令だとウルフも聞き及んでいたからだ。
確定情報ではないとフリットの話しぶりから読み取れるが、話の筋は見えてきた。

「ディーヴァに俺も乗れってことか」
「一緒に、来てもらえますか?」

先程までは意思を強く持っていた瞳が、今は不安に揺れた。
断られたらと思うと逃げ出したくなった。けれど、ウルフならきっと、とフリットは留まった。
ウルフは壁から背を離し、フリットの目の前まで来る。

「行ってもいい」

フリットはウルフを見上げた。特にいつもと変わらない彼の表情に安堵しようとしたが、ウルフは続いて口を開く。

「だがな、条件がある」
「条件?」
「男のまねごとをするのを止めろ」

目を瞠った。それはフリットにとって、今まで築き上げてきたものを捨てろと言われているのと同義だったからだ。
まねごとと言われたのも正直、癪に障った。自分は生半可な気持ちでしているわけではないのにと目の奥が熱くなって。反感とそれ以外が零れないように、堪えた。

「出来ません…」
「なら、交渉決裂だな」

抑揚のない言葉と共に背を向けたウルフにフリットは言葉を返すことが出来ず、その場に立ち尽くした。遠ざかる背が五歩先で止まる。
その行動を見て、まだ猶予があるのではないかとフリットはウルフに歩み寄った。手を伸ばせば届く距離まで詰めれば、ウルフが振り返る初動を見せた。けれど、此方を振り返りきらない。

「説き伏せようとしても無駄だ」

ウルフに届く前にその手は動きを止めて、手はそのままにフリットは俯いて、そんなつもりじゃないと自分に言い訳した。
説得しにきたのではなく、協力して欲しいと伝えにきたのだと。だから、後ろめたいことなどないと、フリットが顔を上げると同時にその手を取られた。
反動で目元から一筋、頬を伝って零れていく。

「お前はどうやったって男にはなれん。そうやって泣くのも、女だからだろ」

自分を否定されて辛いと感じるのは男も女も関係無い。だが、涙もろいのはいつの世も女の方が圧倒的に多い。
けれど、それがフリットにも当てはまるのかウルフは本心では判断しかねていた。此奴は人前で泣くような弱い人間ではないと知っているからこそ、二度も泣かせてしまったと動かない仮面の裏で自分自身を咎めていた。

涙を拭おうとするもう片方の手も捕らえられてしまい、フリットは自由を奪うウルフに懸念を抱いて困惑していた。
男になれないのは、言われなくてもフリット自身が一番よく分かっている。
それらを偽りの箱に押し込んでいたというのに、何故、この男はそれを知らしめるようなことを言うのだ。貴方はそんなふうに誰かの傷を抉り出す人ではなかったではないかと、フリットは悲鳴をあげそうになって、飲み込んだ。

何もかも自分のせいだと気付いたから。自業自得だ。
あんな形で女だと知られて、騙し続けてきたのに今更、臆面もなく協力してくれなどと。愚かな行為だったのだ。

「離して下さい」

遠ざけるためにそう言った。案外簡単にそれに従って手を放したウルフが、此方を自由にするためにそうしたのではなく、本当に遠ざかっていくようにフリットには感じられた。
目元からもう流れるものはなかったが、痕を手の甲で拭ってフリットは息を吸い込む。

「判りました。ウルフさんが決めたことですから、もう何も言いません」

自分の価値観と相手の価値観は違う。厳密に言ってしまえば、価値観が合致する誰かなどいないのだ。それこそが個人を形成する特殊細胞なのだから。
全てを自分中心に見られるのは自分だけだ。その限られた枠とも言うべき殻に他者を無理矢理押し込めば、否定と同じになる。
今は妥協にすぎないが、後で受け入れられるようになるはずだ。
フリットはウルフに話を聞いてくれた礼だと頭を下げた。それから、彼の顔を見ることはせずに部屋を出た。

空気を抜くとも吐き出しているとも聞こえる扉がスライドして閉ざされる音を耳にしながら、ウルフは肩から力を抜いた。

「これで良い」

小さく呟き、ウルフは室内の電気を消した。
欲が人を惑わす瞬間を幾度となく見てきていた。己の気質からそれらを手放しに肯(がえ)んじることは出来ない。けれど、自分にも欲しいと思うものはあった。故に、否定という皮の奥に肯定が潜んでいた。

暗くなった空間で壁に肩を片方預け、フリットの背中があった場所に視線を向ける。
調子よく彼女の願いを聞き入れたかったのが本心だった。あんな最低な真似をした男を信用したままのフリットの潔白さは何よりも掛け替えなかったが、それがより一層に残酷な色に一面を染め上げていた。

素手での暴力の振るい方を知らないフリットは此方の頬を叩きもしない。それを執行する権利があるのにも関わらず。
フリットが男でありたいと思っているのなら、自分は側にいない方が良い。他の人間に隠していることを知られて、奇異な目を向けられる可能性の要因は出来るだけ排除しておくべきだ。

話があると言われたときは、突き放すつもりはなかった。だが、今の時点で周囲に勘ぐられているという事実はウルフに別の選択をさせた。
女になれと言ったところで、フリットが了承しないのは分かりきっていたことだ。彼女の話の内容を聞いても、心変わりは無かった。だから、それを利用した。
ウルフの中に内なる燻りがあったとしても、従うべきは理性だった。
















それは蟲だった。
暗礁に蔓延る混沌の闇。そこを巣窟として、生命を持たない蟲が寄生していた。

奴らは誰の傘下に付くこともしない。そのような概念すら存在せず、ただひたすらにプログラム通りに動き続ける番犬であった。しかし、守るべきものの一部を奪われた。それを取り返すために番犬は狂犬と成り果ててしまった。

過剰成長――制御不能の暴走。創始者の予想を遥かに超える誤算。
手を出さなければ、眠っているのと同じであった。だが、人間の欲は禁断の果実だと知っていても手を伸ばす。あの赤い木の実のように、蛇に唆(そそのか)されて。

鋭い鉤爪の脚部をピアノの鍵盤を一直線に奏でるように唸らせ、紫苑色のモビルスーツに蟲は狙いを定めていた。
巨体の影から無数の小機が出現し、紫苑のモビルスーツを取り囲んでいく。逃げ場が無く、回避を取れない。やむなくドッズガンを連射するが、パニックに陥り絶叫の乱射は小機を一つ破壊しただけだった。
全方位からの同時攻撃――オールレンジ攻撃は敵を粉々にした。

身近な死は、己の死を連想させる。それまでにも、複数の仲間があの巨体に仕留められていた。
忍び寄る影を見て恐怖に翻した土色のモビルスーツが動く。反応した蟲は血のようなモノアイを不気味に動かした。

奪ったのはお前か。
また奪いに来たのか。
私利私欲に対する過剰警戒。

全てを敵と見なす危険思想は殺戮を望んでいた。





























◆後書き◆

ディケはもともとディーヴァの乗員予定に入っているので、ラーガンが引き抜き第一号。
ウルフさんとフリットをがっつり引き離してしまった感じですが、おいおい距離を縮められたらなぁと考えています。
その前に話広げすぎたようにも。十話ぐらいで終わるだろうという予想で書き始めたんですが、少々あやしくなってきたやもしれません(汗)

zwei=2
tropfen=雫

更新日:2012/12/03








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