◆Regenguss◆









“ソロンシティ”のBEAKS BARのカウンター席で年老いた男がブランデーの入ったグラスを傾ける。
舌から喉をじんわりと焼くような味を二十年以上振りに口にしたグルーデックはそろそろ約束の時間だと唯一の店の出入り口に視線を向けた。
すれば、見計らったようにドアが開かれて懐かしい髪色にグルーデックは口元を綻ばせた。

グルーデックの席を目指して店内をゆっくりと歩いてきたのはスーツを着こなした人物だった。彼女はサングラスを外してコバルトグリーンの瞳を晒す。

「お久し振りです」
「久し振りだな、フリット」

グルーデックの隣にフリットは腰掛ける。
バーテンダーにスパークリングワインを頼むフリットの横顔を見つめ、グルーデックは自分の娘が生きていたら子供がいても可笑しくない歳になっているんだなとぼんやりと思い浮かべた。

「大きくなったは、流石に違うか。綺麗になったな」
「グルーデックさんがそんなお世辞を言うとは思いませんでした」

苦笑するフリットに世辞で言ったつもりはなかったんだがとグルーデックは僅かに首を傾けるだけに留める。

「しかし、子供も二人いるそうだな」

瞳を揺らしたフリットに子供に戦争をさせたくはなかったのだろうと見受けられた。
出所したばかりのグルーデックであるが、檻の中でだって出来ることはある。フリットの息子であるアセム・アスノが軍に入隊したことも知っていた。

停戦や和解の意見もあったが、ヴェイガンの支配領域は増殖する一方であり、総司令官の座に着いたフリットはヴェイガンとの全面戦争に持ち込むことを指示した。
そのことに関しては後悔していないだろうが、我が子を戦場で駒として使うのはフリットとて何も思わないわけがない。

「家族を持つつもりはなかったはずなんですけどね」

目の前に運ばれてきたフルートグラスのステム部分を手に取り、揺蕩う赤色に視線を落としてフリットは言った。
自分が特殊な身の上なのは分かりきっていることだ。きっと自分のせいで息子には辛い思いをさせている。だから、愛しい存在に大切な人を失う悲しみを自分と同じように知って欲しくはない。

グルーデックが自分のグラスを掲げて寄せてきたので、フリットは自然に自分が手にしているグラスを寄せ合わせた。
そういうのが分かる歳なのだと再確認し、グルーデックは一つ質問する。

「父親はいるのか?」

グルーデックのその一言に彼がそこまでの情報は得ていないことを意外に思いつつ、フリットは事も無げにその答えを口にした。

「ウルフさんです」
「………」

呆気にとられたようなグルーデックの表情にフリットはこの人でもこんな顔をするんだなと今一度意外に思う。

「あの、グルーデックさん?」
「ぁぁ、いや、すまない。少し驚いた」

現時点でディーヴァに乗艦しているクルーには一通り目を通していたグルーデックはミレースやウルフの懐かしい名も目にしていた。
過去の彼らの様子を見ている限りではウルフとフリットが互いにそういう意識をしていると感じたことがなかったグルーデックは情報以外のことに目を向けようとしていなかったのかもしれないと自分を分析する。

「籍は入れてませんけどね。世間的には内縁ということにしてます」
「お前はそれで良いのか?」
「お互いに了承の上です。家族がいると前線に出してもらえないこともありますから、ウルフさんにとってはその方が良いんでしょう」

戦うことが好きな人だし、それを本人が言い訳だと思っていてもウルフの本心には変わりない。彼の生き方をフリットは理解しているつもりだ。

今日を迎えるまでに本当に色々なことがあったとフリットは振り返る。
ヴェイガンの殲滅という目的があってもそればかりに時間を取られているわけではなく、戦争を身近に感じていない人達と同様に普通の生活を送っていた日もあった。ウルフとの関係が変わったのは何時だっただろうかと記憶をまた遡れば未だに恥ずかしさが甦りもする。

頬の熱さを誤魔化すためにフリットはフルートグラスを手に取り口を付けて一口飲んでから本来の功績者に言葉を掛ける。

「軍がヴェイガンと戦うための戦力に本腰を入れたのは貴方の御陰ですよ、艦長」

戦争を語る者がおらず、平和ボケした兵士達で構成された連邦軍はUEとコロニー災害をイコールで結び付けていた節はあったであろう。けれど、今やそれは過去だった。
ディーヴァがアンバットの要塞を墜としたことで連邦はヴェイガンと相対出来る技術があると踏んだ。相手が機械生命体ではなく人間であると分かれば、敵わぬ相手ではないと考える者が多かったのも理由の一つと言えよう。

「艦長はやめてくれ。それに、総司令官が刑務所出の男を煽(おだ)てるな」

私欲の為に自分は動いていたに過ぎないと老いてからグルーデックは客観的に自分を見るようになっていた。家族の復讐を果たすためにガンダムを、フリットを巻き込み、ディーヴァのクルー全員を私物のように扱った。

復讐は褒められることではない。だから、あの日全ての責任を我が身に振りかざして復讐を終えた。
これで自分の役目は終わったと確信していたグルーデックであったが、彼は軍刑務所で見過ごせぬ情報を得て今此処にいる。その情報とは連邦の内部にヴェイガンの内通者が蔓延っている事実である。
それをフリットに伝えるためにグルーデックは何時まで経っても腐敗というものは無くならないと感じながら口を開こうとし、フリットも神妙なグルーデックの様子に身構えるように背を正した。

だが、仕事終わりに寄りやすい時間帯故か、店の扉を潜ってくる客がまた一人、また一人と間隔を開けずに増えてきた。
それを見てグルーデックはタイミングが悪いと胸の内で苛立った溜息を零す。

「今日は人が多いな」

明日は雨の予定だから都合が良いとグルーデックはまた明日の夜に話の続きをしようと席を立ち、彼女の背後で一度立ち止まって「卵料理はバロットに限る」と漏らした。店に居合わせた客が何人かグルーデックの言葉を耳に入れて顔を顰める。

孵化前のアヒルの卵を茹でたものをバロットと言うが、フリットはそれを食したいと思ったことは一度もない。店を出て行ったグルーデックがバロットを口にしたことがあるのかは分からないが、彼が暗号化した言葉の意味をフリットは正しく読み取っていた。

自分が連邦の内部改革をいくら推し進めたところで手が届かない歯痒さまでは綺麗に出来ない。これでも迅速に対処を繰り返して、やっかみを持つ者達の権力を落としてきたつもりではあった。けれど、何もかもが上手くいかないのが社会というものである。
だからこそ、内部の混沌が孵化するのを防ぐ為にバロットという料理が必要なのだ。







今日の戦闘で入手したヴェイガンのモビルスーツの頭部とノーマルスーツ一式の分析をディケに任せ、フリットはスーツに着替える。
決まった時間を定めてはいなかったが、そろそろ向かわなければ約束の時間に間に合わないだろうとフリットはトレンチコートを手にした。
通路を歩いているとミレースがフリットに気付いて声を掛けてくる。

「今日も何処かへ?」
「懐かしい人に会いに」

ミレース艦長にとってもと付け加えれば、ミレースは少し驚いた顔を見せたかと思えば目を細めた。
明敏な彼女ならばそれだけで気付くと確信していた。
フリットは今日渡されるであろう情報をミレースにも話した方が良いだろうとグルーデックとの密会から帰ってきたら彼の様子と一緒に伝えようと決める。

「帰ってきたら少し付き合ってもらえますか?」
「ええ、良いですよ」

楽しみにしてますとミレースの微笑みを受け止めて、フリットはディーヴァを降りて“ソロンシティ”に昨日と同じように足を踏み入れた。







コロニー内部の巨大シリンダーから人工的に雨を降らす準備が進められていた。雲があるわけではないので、シリンダーから直接水を吹き出すことで雨としている。
水は大切な資源である為、生態系のメカニズムを守る必然性があるとしても真っ新な水を使うことは出来ず、ろ過した再生水を雨として使用している。

再生しているとは言え全て人工で作られた雨は有害物質が含まれていることはないので街を歩く者は傘を持っていない者も多かった。
土砂降りどころか大雨になることも滅多にないからである。

曇り空を演出した街を派手な髪の色をした男がふらふらと闊歩していた。

「ゼハートの奴はもういないってか?」

携帯端末を手に今口にした人物の兄であるデシル・ガレットは自分より上役になった弟が気に喰わなかった。だから、何か弱みを握れないかと彼の後を追うように“ソロンシティ”に降り立っていた。

ゼハートがXラウンダーの能力制御装置として身に付けている仮面は特殊な構造のため、微弱な電波を発している。その電波を端末で追えば、繁華街近くの自然区画のある一点を点滅させていたが、その場には誰もいなかった。舌打ちを一つ吐き出してデシルは元来た道へと踵を返す。

街中を適当な足取りで進み、暢気な人間達を見下すように眺めていたが視界に入ってきた一人に目を奪われる。当初の目的であった人物ではないが、自分の運の良さにデシルはにやりと暗い笑みを浮かべた。

ゆらりと目に入ったその女に近づき、通行の邪魔をするように目の前に立ってやった。
ぶつかる寸前で立ち止まった彼女は危ないなと目の前の人物を視界に入れて目を瞠った。

「デシル…」

以前感じた愛くるしさは皆無に等しかったが、その赤い髪、黄色い目は紛れもなく彼で、面影も残っていた。だから、間違いはないとフリットはデシルを睨み付けた。

「よぉ、この間は世話になったぜ」

デシルは自分の機体であるクロノスを半壊したフリットへの恨みを更に募らせていた。
しかし、こうやって生身で会うのは何年振りだったかと振り返ってもみる。自分も餓鬼だったが、目の前のフリットも餓鬼だった。今目の前にいるフリットを下から上まで舐めるように観察し、自分はコールドスリープを使用していたので少なくとも七歳分以上は彼女が年上だろう。
一番良い時期は過ぎているが、それを差し引いても悪くないなとデシルは独りごちる。

不躾なデシルの視線にフリットは嫌なものを覚えて眉を顰める。彼女の歪む表情に愉悦の感情を得たデシルは喉を震わせた。
その真っ直ぐすぎて射貫くような瞳を濡らして怯えさせたくなる。

「立ち去れ。こんな場所で騒ぎは起こしたくない」

言いながらフリットは腕に掛けているコートに右手を忍ばせて冷たい感触を握る。

「騒ぎ?ハハッ」
「何が可笑しい」

ずいっと顔を寄せてきたデシルはフリットの首筋に冷たい物を差し向けた。息を呑んだフリットにデシルは可笑しすぎて大笑いしそうになるがそれを堪える。

「人のヤり方は俺の方が上だ。地球種が往来してるとこが嫌ならあっち行こうぜ、お姉ちゃん」

フリットはデシルが言うとおりに路地裏に入った。薄暗い街並みの中でより一層暗いそこはカビ一つ無いというのに湿っているような陰気臭さがあった。

後ろにぴったりとくっついてきたデシルを横目で伺おうとすれば、瞬時に前に回り込まれた。フリットは咄嗟に後ろに跳び退こうとしたが、生身ではXラウンダーの能力があったとしても肉体の違いまで上回ることは出来ない。回避が間に合わずにデシルの膝蹴りをフリットは鳩尾にまともに喰らった。

声なのか息なのか分からないものが喉から吐き出され、胃液が口端から顎を伝う。コートごと拳銃も地面に落としてしまい、銃だけでもと手を伸ばした。
だが、デシルがフリットを建物の壁に押しつける。右腕でフリットの喉を押しやれば、出かかった胃液が喉に引き返してフリットは苦しそうに咳き込んだ。

楽しい、楽しすぎるとフリットが息を整えるまでずっと眺めていたデシルは腕を彼女の喉から離した。

「デシル」

殺意を感じる睨みのこもった視線を向けられてデシルは更に楽しくなってくる。

「楽しませろよ」
「私はそんなに安くない」

フリットの声には気高さがあった。人を従わせるに十分な威厳が込められていた。
だが、デシルという存在には全く通用しない。

「ハッ、お高くとまりやがって」

鼻で笑って切り捨て、どうせ立っているのも辛いくせにとデシルはフリットに顔を寄せてその乳房をスーツの上から左手で鷲掴んでやった。

「なッ…ゃ、」

デシルの行動が信じられず、フリットはか細い声をあげた。
安くないと威勢の良い啖呵を切っておいて、そのような反応にデシルは事を進めた。フリットの髪を結っているリボンを解けば、それに触れるなとフリットが低く呻いたが、デシルは聞く耳を持たない。

リボンで己の両腕を拘束され、視界に入る優しげなピンクの色に胸が痛んだ。
足の間にデシルの片足が割り込み、大腿部がフリットの秘部を擦る。その感触に本気なのかとフリットは五感が無くなればいいと硬く目を閉じた。反応を返せば相手の思う壺なら、最後まで人形でいれば良いだけだと、信じた。
だから、後ろを向かされてヒップのラインを確かめるように撫でられ、臀部を叩(はた)かれても何も言わなかったが。

「ああ、思い出した。あのお姉ちゃんも餓鬼だったわりにいい尻してたぜ」
「ッ…!」

儚げな少女の顔が脳裏を掠めるとフリットは奥歯を噛みしめ、次の瞬間には身体の向きを自力で変え、デシルの顔を真正面に見据えて怒りの声を吠えていた。

「貴っ様ァァァ!」

手首を拘束されたままでも何とかなるとデシルの顔横目掛けて肘打ちを嗾けたが、身体を後ろに反ったデシルに攻撃を交わされる。それどころか背中を蹴られて地面に這いつくばるように倒れ込んでしまった。
冷たい雫がフリットの髪に、頬に、服に降りかかる。予定通りの雨の時間だった。

「地球種の総司令官様が哀れだなぁ。とんだ溝鼠だ」

フリットを地面の上で仰向けに転がすと、デシルは彼女の腕の自由を更に無くすために落ちていたトレンチコートで両腕の前腕部を全て覆い尽くすように巻いた。
スカートを破いて足の間に身体を割り込ませ、黒のストッキングを履いた彼女の足を左右に割り開く。そのようなことをされても何の反応もせず黙っているフリットにデシルは眉間に皺を寄せた。

「悲鳴でもあげろよ、フリット」
「…………」

目を閉じて顔を横に背けたフリットにデシルは苛立ちが募り、更に捲し立てる。

「ハッ、あれだろ。今の地位を手に入れる為にこの身体をおっぴろげてきたんだ。何十人何百人の男とどれだけヤってきたんだろうな?」
「…………」

そんなことはしていないと口にしなかったが、実際そういうことをフリットはしてこなかった。というよりは出来なかったに近い。
色香を使ったほうが連邦の内部改革は迅速に進められただろうし、今より都合の良い環境に出来たであろうとは思っている。今の歳ではそんなことを考えてももう遅いだろうとも。
けれど、未だにフリットは過去に身体を暴かれそうになったときのことを引き摺っていた。今だって必死に震えを堪えているのだ。

自分に触れて良いのはウルフだけだ。それは一生変わらないという確信すらあった。
無骨で、荒っぽくて、喰われると何度思っただろう。けれど、触れてくる熱はいつも優しいのだ。
なのに、今、自分の胸をまさぐる手はあの人じゃない。

雨の激しさが増した。地面を強く弾くその音が頭に響いて痛い。しかし、フリットに頭痛を招いたそれは一人の足音を掻き消してくれていた。
セイフティを外した銃口が赤髪にゴリッと突きつけられる。

「俺の女に何してる、クソ餓鬼」

俺の女ねぇとデシルは自分に銃口とプレッシャーを向ける男を横目を上げて視界に入れる。傘をその辺に放り投げて銃を手にしている男は野生動物を連想させる容貌をしていた。

「ウルフさ…ん」

雨の音で掻き消されそうであったが、フリットの声にウルフは彼女に視線を向ける。
出来ることならフリットがこの男と出会す前に駆けつけたかったところだ。現状より遅れるよりはマシかと無理矢理言い聞かせるも、ウルフはフリットの格好に顔を顰めた。

フリットはウルフが此方を見たことでデシルから距離を取るように後ろにずり下がって巻かれているだけのコートを何とか解き、下半身の佇まいを直す。
叱られでもしたかのようにばつの悪そうな表情に変わるフリットにデシルはこの男が言ったことは嘘ではないらしいと捉える。

「お前、ヴェイガンの人間だよな。悪いが捕虜になってもらう」

ヴェイガン側の人間と生身で対峙したことは何度かあった。同じ人間だとしても生活の環境が違えば文化も変わるものなのだろう。彼らは頑なに手先まで肌を覆うような服装をしている者が多い。

「捕虜?笑わせるな、手前ぇ撃つ気無いだろ」

デシルは予知で後ろの男は自分を撃たないと確信していたが、予知がなくともそう判断出来る材料はあった。路地裏だとしても繁華街の中で銃声が響けば、聞き付けた民間人が警察にでも通報するはずだ。事情聴取などで足止めされれば、単独行動をしていたフリットの何らかの目的は果たせない。そんなところだろう。

「ご名答、思ったより頭の回転いいじゃないか。だがな、撃つだけが軍人の仕事じゃない」

ウルフは赤い頭を左の掌で引っ掴んで建物の壁にめり込ませる勢いで叩き付ける。ガリッと低く嫌な音がデシルの脳髄を駆けた。
噛み殺してやるという視線が真正面から威嚇してくる。銃をホルダーに戻し、ウルフの速度がありながらも重い拳一発がデシルに飛んだ。雨の水分ごと拳の打つ音がしたが、デシルの身体は傾がない。デシルの掌がウルフの拳を受け止めたからだ。

それに僅かに目を瞠るウルフであるが、次の瞬間には相手がXラウンダーであることを見抜く。でなければ、ラーガンから護身術や格闘技を学んだフリットが不利な状況になっているはずがなかった。
余裕のある赤髪の男の顔に、最初の攻撃は試しに受けてみただけなことが見て取れる。

「ウルフさん、退いて下さい」
「フリット?」

腕をリボンに絡められたまま両手で銃を持つフリットは立ち上がり、デシルを睨み付けた。
撃つのか撃たないのかデシルの予知は曖昧だった。それはフリットが迷っているからであり、即座の判断が出来ていない証拠だ。

「撃てるのか?俺を撃たずに宇宙に見逃したお前が」
「言ったはずだ。償ってもらうと!」

AGE-1フラットでクロノスと対峙した時、兵士でもない少女をモビルスーツに乗せて無理矢理戦場で戦わせた罪を償わせるつもりだった。だが、それは果たされずにクロノスはゼイドラに連れられて撤退した。
ならば、今度こそとフリットは銃を握る手に力を込めた。

銃声がコロニーの空に響いた。
身体を打つ雨が痛いと感じるほど激しくなる。

「アラベルか?」

デシルが口にした名を記憶に刻みながらも、フリットは銃口の切っ先をデシルから離さない。

「白けちまったな、お遊戯はここまでだ」
「待て!」

雨の中に消えていこうとするデシルに怒りを込めて制止しようと声を放つが、銃を持つ両手を包む手が腕を下ろさせた。
どうしてとフリットはウルフを見上げた。やっと決断出来たのに何故撃たせてくれないのだと。

「分が悪いのは判ってるだろ」

豪雨は視界を鈍らせ、デシルの姿は直ぐに掻き消された。
先程何処かで放たれた銃声を聞き付けたであろうパトカーが警報を鳴らしながらウルフとフリットに見向きもせずに路地裏から見える車道を通過していく。

警報は遠ざかったが、一定の音量のまま下がらなくなった。此処からあまり離れていない場所が現場らしい。
そんなことを片隅で考えながらフリットは腕のリボンを解くために雨を防ごうと前屈みになるウルフに自分も同じようにリボンに雨があたらないように俯く。

このリボンのことを、少女のことをフリットはウルフにほんの少しだけ話していた。随分昔にと言えるくらいの年月は経ったように思う。
ウルフの手によって丁寧に解かれていくリボンは水分を吸っていて鮮やかなピンクを曇らせていた。

「どうする?」
「付けます」

解かれたリボンをウルフから受け取り、フリットは濡れていることに構いはせずにそのリボンで自分の髪を結った。
内側まで雨で濡れてしまったコートを拾い腕に掛け、スカートの破れが見えないように位置を調整していると、雨粒を防ぎ弾く音がフリットの頭上で鳴る。

「システムエラーで今日は大雨だそうだ」

フリットがディーヴァを降りていった後に気象庁からシステムエラー注意報が報告され、それを知ったミレースが艦内で傘を探し出してフリットを追いかけようとしていた所にウルフは出会していた。
司令官のフリットがいないのに艦長であるミレースまでもがディーヴァを離れるのは不味いからとウルフが傘を受け取り、現状に至る。

「この分だと一時間後には止むでしょうね」

雨に使用する水量には限界がある。明け方時刻まで雨が続く予定であったが、豪雨並みの勢いで水を使えば予定より早く雨が終わることは必然だ。

「相合い傘は初めてだよな」
「……それが目的ですか」

気が抜けた。コロニーで雨が降っても害があるわけではなく、余程神経質でなければ傘を差す人間もいない。
流石にシステムエラーで大量の雨が一度に降れば傘は必要であったが、ウルフの思惑には緊張感も何もなくて呆れてしまう。
デシルとの確執を隅に追いやれるほどで、フリットはこの人には敵わないなと困ったように小さく笑った。

時々互いの肩がぶつかるけれど、触れ合うのは当たり前だとそのことに構いはせずに傘の下でフリットはウルフと並んで街中を歩いていた。
視線の先でパトカーと密集している民間人に、銃声があった現場だろうとフリットは足を止める。

「フリット」

連邦の総司令官がこんな所に居ては悪目立ちすると含めて彼女の名をウルフは呼ぶ。

「雨で薄れちまってるが、血痕があるんだから怪我人か死体はあるはずだろ」
「近くの別の路地に老人の遺体があるんですが、そっちはナイフで一突きで」

スーツにロングコートといった出で立ちの捜査官らの会話を耳に入れた直後、フリットは傘を手にしているウルフに何も言わずに駆け出していった。
狼の勘は嫌な空気を嗅いで、フリットの後を追いかける。

パトカーが止まっていた路地よりも人集りは少なかったが、そこで事件があったのは誰が見ても明らかだ。
警察はまだこの現場を立ち入り禁止にしてはおらず、人を掻き分けてフリットは暗い路地に足を踏み入れる。
一歩一歩と近づく度に足が震えていった。崩れ落ちているその人の傍らに膝をつき、その顔をよく見る。

嫌な予感が現実として目の前に突きつけられたことにフリットは後悔した。こんなことにならないように、日をずらせば良かった。こんなことにならないように、権限を使って彼をディーヴァに連れて行けば良かった。こんなことにならないように、どうすれば良かったのだろうか。

「…グルーデックさん」

かつて大きな背中を持つ男であった亡骸を抱き寄せた。
こんな最期で良いはずがないのに、彼の顔は穏やかに眠っていた。そのことが信じられなかったし、悔しかった。

誰がこんなことを、と彼から視線を逸らしたときだ。一本のナイフがフリットの目に留まる。

「あれは…」

デシルが手にしていたものと形状が酷似していた。むしろ、同じものであった。けれど、グルーデックを手に掛けたのはデシルではない。状況証拠だけ見てもそれは明らかだ。
あの銃声は何だ。消えた人間は誰だ。デシルが口にした名は。
この事件と連邦内部に潜む陰謀に辿り着くための証拠はこの場には既に無かった。

「フリット、これは…」

何なんだと、フリットに追いついたウルフは眉間に皺を寄せた。グルーデックが“ソロンシティ”の路上で血まみれになって息を引き取っている意味が彼には分からなかった。

「ウルフさん、僕はまた…救えなかった」

俯くフリットの顔は見えなかったが、震える声音に泣いているのは手に取るように分かった。
彼女に寄り添おうと一歩踏み込めば、肩を叩かれてウルフは振り返る。

「ソロンシティ捜査一課の者だ。勝手に現場を荒らされるのは迷惑なんだがね、そこのご老体とは知り合いか?それと、身分を証明出来るものは?」

強面の捜査官に面倒なことになってしまったと思うが、軍服の自分が身分を隠せるようなものではないし、フリットの顔を知らない人間もそうそういまい。

「連邦軍戦艦ディーヴァ所属、ウルフ・エニアクルだ」

IDカードを差し出し、確認を得ると捜査官の男はフリットに視線を向けた。

「君も、いいかね?」

フリットは丁寧にグルーデックをその場に寝かせて立ち上がり、立ち入り禁止のテープが貼られる現場から出ていき、IDカードを差し出した。それを確認して目を瞠る捜査官はどうしたものかと頭を掻く。
連邦の総司令官といえば、この世の中の政治体制から教育関係まで一気に変えてしまった人物である。
全ての事件には心血を注いでいるが、この事件を預かる身としては生半可な捜査は絶対に出来ないだろうし、下手なことは言えない。

「ご協力有り難う御座います」

IDカードを返却し、捜査官はさてどうすると自分に投げかけ、部下を数人呼びつけようかと携帯を取り出す。けれどとも思い、携帯を操作する手を止める。

「ああ、もしかして軍の作戦行動中でしたか?」

先日、ヴェイガンと連邦の市街地戦があったばかりだ。それに数時間前にコロニー近くの宙域で戦闘があったという情報も得ている。
捜査官がそう言えば、ウルフは言葉を濁す。自分は勝手に外に出てきたようなものであるが、フリットはグルーデックと密会するはずだったのだろう。

それを言えるはずもなく、ウルフが思案していると自分の胸に重みが来た。
フリットだ。涙も震えも止まらないようで、自ら身を寄せてきたのだ。そこまで追い詰められているのだと知り、ウルフはフリットの頭を撫でる。

そんな二人の様子に捜査官は逢い引きの最中だったから相手は言葉を濁したのだろうと勝手に解釈した。

「成る程、体裁に関わることをしていらっしゃったと」

ややこしい判断をされていることにウルフは内心溜息を吐く。勘違いされたままにしておいても良いかもしれないが、週刊誌やらウェブニュースの記者に変な情報を目の前の捜査官が流さないという確証は何処にもない。最終的に訂正が入ろうとも、最初の先入観を拭うのは容易いことではなく、自分は兎も角フリットは現総司令官としてメディアに取り上げられることは度々ある。

「すみません、この人は私の夫です」

ウルフの思案をよそに、フリットは彼の胸から涙を止めた顔を上げてそう言った。

「いや、しかし」

二人のIDカードをしっかり確認した捜査官は首を捻る。フリットがシングルマザーであることは周知の事実だが、子供の父親について知っているのは一部の軍人だけだった。

「内縁だと言えば、通じますよね」

捜査官の年齢は見た目からしてウルフとはあまり変わらないだろう。それ以上は余計な詮索をしないでくれと強く込めて言葉にすれば、相手は口を閉ざした。

「殺害された人のことについては隠さずお話します。その代わり、この事件は連邦捜査局へ引き継ぎ願いたい」

彼女が真実に辿り着くのは少し先の未来になる。
そして、雨が止んだ。







ディーヴァに帰り着けば、フリットはウルフのジャケットを頭から被らされた。

「そんな泣き腫らした顔じゃ示しがつかんだろ」
「…はい」

素直に頷いて自分の後ろをついてくるフリットにウルフはそれ以上は何も言わなかったというよりは言葉が見つからなかった。
ブリーフィングルームを通り過ぎたところで、その扉が開かれる音が背後からした。

「司令、傘のほうは…間に合わなかったみたいですね」

雨で出来た服の染み込みは早く乾かさなければ風邪をひきそうなくらいであることを目で確認して、ブリーフィングルームから出てきたミレースは言った。
けれど、此方を振り返ったフリットとウルフに違和感を感じた。

「いえ、傘は使わせてもらいましたから」
「それなら良かったんですが。ああ、傘は預かります」

ウルフから傘を受け取り、ミレースは再びフリットを伺えば、スカートに引き裂かれた跡があるのを目に留める。ウルフに何があったと険のある視線を向ければ、彼は今は話せないと頭(かぶり)を振った。

「…今日の約束はまた今度にしましょうか」

フリットが“ソロンシティ”に降りる前に話したいことがあると言っていたが、この様子では込み入った話は出来そうもない。
ミレースに頭を下げて、ウルフに腕を取られてその場を後にするフリットの背中をミレースはやりきれないと瞼を少しだけ伏せた。







「お前さ、好きこのんで民間人用の部屋使わなくてもいいんじゃないか?」

フリットが使用している部屋は最初にディーヴァに乗り合わせてしまった時に使っていた遭難者である民間人を収容するために設けられた居住区間の一室だ。
その部屋の前でウルフは司令官がこんな部屋でいいものかと首を傾げる。

「一人で使うには十分な広さですよ、シャワーも付いてますし。それに、忘れたくないものがあるんです」

フリットにとっては原点のような場所だった。そして、自分をブレさせない為の過去がそこにはある。

「ジャケット、有り難う御座います」

被っていたウルフのジャケットを持ち主に返し、フリットは部屋に入ろうとする。けれど、その前にウルフに抱き寄せられて唇を塞がれた。ウルフのそれによって。
舌を絡め取られ、吸われる。その痺れるような感覚に身を委ねそうになったが、フリットはウルフを自分から引き剥がした。その勢いのまま扉に背中が当たる。

「こんな慰め方は止めて下さい」
「慰めてるんじゃない」

自分に覆い被さるように近づいてきたウルフによって通路を照らすライトが見えなくなる。

「あの赤毛の男と何があった」
「何がって、別に何も」

デシルとの確執は自分の問題であり、ウルフを巻き込むことはしたくはなくてフリットは顔を背けた。身体を触られた嫌悪感がまだ残っていて自分を抱くように組んだ手が腕をぐっと掴む。

「俺が苛ついてる意味は?」
「それは…分かります」

説明付けて言葉にすることは出来なかったが、ウルフの感情は伝わってくる。
それでも、別の人間であるから時間を共有出来てもフリットはウルフの全てを分かることは出来ない。

ウルフは自分より小さなフリットを見下ろす。
彼女はあまりにも人の死を背負いすぎていた。託された想いの数はそれに更に何重にも上乗せされている。
見限った想いもあるだろうが、全てに完璧に応えていたらフリットは今立っていないのだろうとも思った。既にギリギリなのではないか。そんな風に思うのは、彼女が自分に厳しく弱みを見せようとしないからだ。

「抱かせろ」

耳元で言われ、フリットの身体がこの後の展開を想像して震える。
慰めるなと言ったのになと一度眉尻を下げた。けれど、この人は、ウルフは今此処にいるのだと確かめたいのも本心だった。

顔を寄せてきたウルフは最終的な判断は此方に任せてくる。無理矢理進ませようとしないのだから分別があるだけに誠実で、拒むことを出来なくなるではないか。
フリットは自らウルフの唇に自分のそれを寄せた。

抱き合う二人を通路の脇からアセムが見ていたことに気付かずに。





























◆後書き◆

「フリット・ユリン・デシル」と「フリット・ウルフ・デシル」のダブルトライアングル。
これでデシルがウルフのプレッシャーを覚えたので、次の戦場では意識するはず。

「バロット」については検索するとウィ○ペディアで画像付きがご丁寧に出てきてしまうので調べるのはあまりオススメ出来ません。

Regenguss=土砂降り

更新日:2012/06/10








ブラウザバックお願いします