◆Kreative◆









ベビーベッドを覗き込んだフリットはふわりと微笑む。産まれてきてくれたユノアはすやすやと眠っていた。小さな手はうさぎのぬいぐるみをぎゅうっと握っている。
二人目も出来るとは思っていなかったから、仕事の調整は大変だった。けれど、愛しい我が子を前にすれば些細なことでしかない。

涎を拭ってあげながら、彼との子なんだなぁとフリットは幸せを噛みしめる。ユノアのブランケットをかけ直したフリットは今度はカーペットに正座して座る。すれば、三歳の息子が此方を振り返る。

「アセムは何を作ってるんだ?」
「どぉーじょつくってゆ」
「どじょ?」

フリットはまだ単語一つ一つをはっきり喋られないアセムの言葉を読解しようと必死に首を傾げる。どーじょ、どうじょ、どうぞ、どうぞう……銅像だろうか。

アセムは手に持っていた三角の積み木を自分が今まで組み立てていたもののてっぺんに置く。それはどう見ても家にしか見えなかった。もしくは城。
建物にしか見えなかったが、フリットはアセムの言葉を信じることにした。

「銅像か。立派だな」
「いっぱ!いっぱ!」

銅像と言った瞬間大きく頷いたアセムは母親が褒めてくれたと嬉しそうに舌っ足らずに立派を何度も口にした。
その積み木の銅像の横にアセムは新しく何かを組み立て始める。母親に喜んでもらおうとはきはきと手を動かしている。

アセムの目には入っていない片隅の積み木を手に拾ったフリットは自分もそれらを積んでみる。丸と三角と四角だけでガンダムを作れるものだろうかと何となしに。
胴を丸にするか四角にするか悩んでいると、リビングの扉が開く音がしてフリットは顔を上げる。アセムは積み木に夢中だ。

「俺の腕時計どこやったっけ」
「ああ。それなら」

フリットは立ち上がり、テレビ台の下にある引き出しに向かう。床に近い場所なので、両膝をついて開ける。
銀色の少し重みのある腕時計は有名なブランドものだ。ウルフらしい趣味だとフリットは手に取る。ありましたよと振り返るよりも先に背中に温かみが来た。
此方の肩口に腕をまわして後ろから浅く抱きしめてきたウルフの存在を背中に感じ、フリットは何も言えなくなる。

リビングの扉の前には大きめの荷物があった。ウルフが纏めたものだ。
大きめと言っても衣服や必要最低限のものだけで二泊程度の量だった。あれだけしかなかったんだなとフリットは目を伏せる。

堅く閉じていた口から短く息を吐いたフリットは自分にまわされているウルフの手に自分の手を重ねる。

「出発の時間じゃないんですか?シャトルに乗り遅れますよ」
「一つ遅くする」
「無駄遣いしないでくださいよ」

キャンセル料などどうするんだとフリットは困った顔をする。けれど、ウルフがもう少し一緒にいたいと思っていることに嬉しい気持ちもまたあった。

「さっき予約変更しといた。時計サンキュ」
「どう致しまして」

変更してあるなら、そのことに関してはもう特に言うことはない。

腕時計をフリットの手から貰い、ウルフは時計の針を確認する。その動作で此方を抱いていたウルフの腕が緩む。フリットが自分の手を離すかどうか迷っていると、硬い音がした。

ゴチッという音にフリットはハッと顔を上げる。

「アセム!?」

慌てて駆け寄れば、アセムは突然のことに固まっていた。

「大丈夫か?」

フリットが顔を覗き込めば、小さなおでこが赤くなっていた。

アセムは背の低いテーブルの上に置かれた積み木を座ったまま手で取ろうとしたが、微妙に届かなかった。その足りない分を無理な体勢から立ち上がろうとしてテーブルの角に頭をぶつけた。
ちゃんと立ち上がってから積み木を取ればこんなことにはならなかったが、幼いアセムはそんな理論よりも自分の身におこった出来事に驚いていた。

母親の心配そうな顔を見た途端、自分に良くないことが起ったのだと悟り、額の痛みを自覚する。

「ぁ」

尻餅をついているアセムは両手を額に持っていき、目を潤ませる。心配そうな母親の顔が更に心配を重ねたことにアセムはそんな顔をしないで欲しくて我慢しようとしたが、心配かけるのが嫌だと思って余計に泪が込み上げてきてしまった。

「あぁあーー、ぅあーぁぁあ」

大泣きをしたアセムをフリットは抱き上げる。

「傍にいなくてごめんな。母さんが悪かったから」
「うああああ」

違う違うとアセムは顔を横に振り続ける。
よしよしとフリットが背中をさすってあげても効果はなかった。アセムの額を冷やさなければいけないのだが、これでは動けない。しまいにはベビーベットの方から「ぅぅ」とぐずるような声が届く。ユノアが起きそうになっている。赤ん坊は感受性が強い。兄が泣いているところを見たらユノアも泣き始めてしまうはずだ。

ウルフに助けを求めようとしたフリットだったが、明日からは彼を頼れないことを思い出して言葉が出てこなかった。自分一人で子供達を育てる覚悟は出来ていると、フリットはアセムを抱えたまま立ち上がった。
そのまま冷蔵庫の氷を取りに行こうとしたが、目の前にウルフが立ちはだかる。進めなくなって戸惑っているフリットの腕からウルフはアセムを抱き上げた。

「よっし。偉いぞ、アセム」

褒美の高い高いだとアセムをあやすウルフの突拍子もない行動に面食らっていると、次第にアセムは泣き止んでいく。

「ぁ、う……ぅぅ」

表情はまだ悲しそうだが、両足をばたばたさせて楽しさを身体で表現している息子の変化にフリットは尚も驚いているままだ。動けずにいるフリットにウルフは普通に言葉を向ける。

「ユノアの様子見てくるから、フリットは冷やすもんな」
「あっ、はい」

アセムを片腕だけで軽々抱え直したウルフはベビーベッドのユノアを覗く。手からぬいぐるみが離れている。ユノアはいつもこのうさぎのぬいぐるみと手を繋いで寝ているので、ウルフは迷いなくそれを娘に握らせる。
ほっとしたような顔になったユノアの寝顔に満足したウルフはアセムを再び高い高いと持ち上げてやる。みるみるうちに三歳児は笑顔を取り戻した。

笑い声に誘われるようにしてフリットは氷水を入れたビニール袋を手に戻ってくる。
ウルフはアセムをソファに座らせた。息子の横にフリットは座ると、手にしている氷水をアセムの額にタオルをあててからそっと触れさせる。

「んー。つめぃ」
「冷たいの少し我慢な」
「つめたいがまんしゅる」
「アセムは偉いな」

母親にも褒められてアセムは嬉しそうに頬を緩ませた。

息子とはフリットを挟む位置に座ったウルフは二人の様子を見てから、別のところへと視線を投げた。それから再び視線を戻すがそれはフリットだけに向けられていた。

父親が母親を見ている。そのことに気付いたアセムはフリットを見上げて「じぶんでもってる」と氷水の袋を両手で押さえるように掴む。

「自分で持てるのか?」
「だいじょーぶ」

自分で出来ることを見つけるとアセムは自分でやりたがる。その個性は誰に似たかと言えばフリットだろう。そのように思っているウルフの視線はまだ彼女から離れていなかった。

アセムが一人で氷水を持っているのを暫し見守ったフリットは安心を得てから、ずっと感じていた視線を振り返る。

「膝枕」
「ぇ」

此方が何用だと問おうとする前にウルフが口を開き、了承も拒否も何も返事をしていないのに彼は自分で言ったことを実行に移した。
人の腿を勝手に枕にし出したウルフに驚いていたフリットだったが、アセムが産まれる前のことを不意に思い出して面映ゆい表情に変わる。氷水と膝枕の連想で思い出される記憶が一つあった。

肉付きがあまり良くないフリットは柔らかさの足りない自分の身体はウルフの理想に達していないのではないかと実は気にしていた。だから生地の厚いジーンズではなく、薄めのズボンにしておくんだったと少し後悔した。
のだけれど、満足そうにウルフが腿に頬ずりしてきてフリットは頬を染める。

身体の緊張から意識を逸らそうと視線を彷徨わせていれば、アセムが此方を見ていた。無垢な瞳にフリットは言葉をなくしつつ、ウルフに視線を戻した。

「……」
「なんだ?」
「……あの、アセムは何で」

ウルフの手で泣き止んだのだろうか。これが判らなければいけないような気がしていて、フリットは静かに訊いた。

「お前が泣きそうな顔するから泣いちまったんじゃねーの?」
「僕が、ですか?」

はっきりとウルフも理由が判っているわけではなかった。けれど、アセムはフリットの顔を見てから途端に泣き出したのだ。
まだ三歳なのに一人前に母親を守ろうとした素振りがあったからこそ、ウルフはアセムを褒めた。ただ、それだけのことだった。

フリットを置いていくことが気掛かりだったウルフは母親思いのこの息子が彼女の傍にいるなら心配はいらないと思えていた。しかし、フリットは自分がアセムのことを判ってあげられていないことを苦に思う。

今まで散々鈍い感覚を指摘され続けている。モビルスーツ部隊の隊長を任された時も部下の真意を理解出来ずにいた。少し判るようになってからは彼らとの関係は良好傾向だが、ラーガンに教えてもらっていなかったら自分は独りよがりなままだった。

己の性格による感情論点の不明瞭さは相変わらずだ。血の繋がりある我が子達への接し方にフリットは戸惑うばかり、自己評価をどんどん下げていく。
七歳以降、家族との思い出は何一つない。家族とは何か。フリットにとって希薄なものだった。だから、正解が見えていなかった。

表情を沈ませているフリットの様子に、ウルフはまた一人で抱え込んでいるらしいと目を細める。助けを求めないのがフリットの強さだが、同時に脆さでもあった。

「キスしてくれ」
「そんな……気分じゃないんですけど」

思考の渦にはまりかけていたフリットは僅かに反応を見せた後でウルフに少し呆れた表情を落とす。
ただ、唐突なウルフの言葉に引っ張られた感覚があって、フリットの鼓動は落ち着きをなくしている。

それでもやはり口付け合うのはアセムの目もあるから遠慮した。その代わりに右手を持ち上げる。
分けられた銀髪から覗く肌の濃い額をその手で撫でる。ウルフは片目を瞑っただけで、フリットからの触れ合いを応諾した。食み合いたいのが本音だが。

「あったけぇ」
「何ですか。それ」

フリットは小さく喉を喜色に震わせた。ウルフはいつも思ったままを口にする。それは子供っぽさが垣間見えるものだが、そうではない。だから自分にとって予想外のことが多くて、変な人だと感じてしまう。温かいのはどちらの胸中だろうか。

じいっと、両親の様子を見ていたアセムは口をもごもごさせていた。

「まま、あせむも」
「ん?」

フリットはウルフから視線を外して息子と目を合わす。アセムの望みを先に理解したウルフが頭の位置を下げて、フリットの右足を自由にした。
アセムはウルフと同じように膝枕をしてもらいたいのだとフリットもワンテンポ後で理解する。

「いいよ。おいで」

母親からの許しを貰ったアセムは額の氷水を落とさないようにしながらフリットに近づく。
ころん。ぽて。
そんな音がしそうな感じでアセムは小さな身体を転がした。右の腿に頭を乗せてそわそわしている息子をフリットは微笑ましく見つめる。

「アセム、おでこ見せてごらん」
「もうい?」

氷水の袋を持ち上げ、タオルも取り去る。フリットがアセムの額を見遣るれば、見た目は殆ど赤くない。これならもう安心だろう。
尋ねるアセムにフリットは大きく頷いてやる。

しかし、額を撫でるように触れてみれば小さなこぶが出来ていた。

「もういいよ。でも念のために後で冷却シート貼っておこうな」
「うん。わかったー」

頭を撫でられるのが気持ち良いのか、アセムはご満悦だ。湿布など粘着質のあるものを身体に貼られるのを大概厭がられるのだが、今日は機嫌が良さそうでほっとする。

「おてて、あったか」

母親の手が温かいのがとても嬉しい様子だ。ウルフと同じことを言ったアセムにフリットは目を丸くする。
温かい。
それは、フリットの記憶にも残っている。母のマリナの手は温かかった。

親から受け継いだものなのか、自分がただそうなのか。はっきりした根拠はない。それらを照合する術もない。
だから気付くのが遅くなってしまった。

いつの間にか、最初からそこにあったものだったんだ。

泣きそうな顔は出来ない。アセムをまた心配させてしまう。溢れてしまいそうなものを堪えて、込み上げは外に出ないように内側に巡らす。

愛おしく息子の頭をなで続けるフリットの顔を見上げていたウルフはそっと視線を横に移動させた。母親の顔をしているフリットを間近にしてむず痒くなった。けれど、次には父親になる決心が着かない自身の心境から目を背けた。
アセムのことはもう抱き慣れてしまっていたが、ユノアは産まれた時を含めて数度しか抱き上げられなかった。重いのだ。体重とは異なるものが、重い。

親という存在をフリットよりは知っている。けれど、自分が父親になれるとは到底思えなかった。
思い出されるのは、蝙蝠退治戦役時。アンバットの要塞にいた年端もいかない少年兵だ。顔はもう覚えていないが、彼が息を引き取る間際に差し出したペンダントを受け取った瞬間の冷たさと感傷の感触は今も鮮明だった。
言うべきだ。

突然背を起こしたウルフにフリットは動きを止めた。彼の背中を静かに見つめる。

「フリット、あのな」
「はい。何ですか?」

それから直ぐには会話は続かなかった。
ウルフの番だったが、彼は目元を手で覆った。肝心なときに肝心な言葉が出てこない。好きな女に格好悪いところを見せたくないだとか、そんな単純なものではなく。

苦い気持ちに口を開けないでいると、フリットから「ウルフさん」と呼んできた。その声色はとても優しく、ウルフは自分の顔から手を離していた。

振り返ったウルフの顔をやっと見られた。けれど、その表情を見てフリットは眉を下げる。この人のこんな顔を見るのは何年振りだろうか。
眉を下げているが、平気だからとフリットは微笑みを浮かべる。
これからは一人でアセムとユノアを育てていく。その覚悟は今さっき、ウルフのおかげで固まった。自分はちゃんとした母親になれないのではないかといった不安は、彼が背中を押してくれて取り除かれたから。

「いいんですよ。今じゃなくても」

ウルフは目を瞠る。此方が何を言おうとしているかフリットは判っていない。けれど勘づいているのが感じ取れた。
今までもそういうことがあった。何度もウルフは言おうとして、その度にフリットは思い詰めなくても良いのだと、手を握ってきた。

今も、握られる。
その温かさに逃げ込みたくなる。けれど、今日は今までとは違う。
それでも言葉は重く、口は開かないままだった。ウルフの様子にフリットは握っていた手をぎゅっともう少し握り込む。

「すみません」
「お前が謝る必要ねぇよ」
「いえ」

ふるりとフリットはゆっくり顔を横に振った。
本当は多分。自分の方がウルフからの言葉に身構えている。

「きっと、聞いたら……僕はどうしたらいいか、解らなくなると思います」

きっとや思うという言葉はあやふやだ。やはりフリットは此方が言おうとしている内容を把握していない。 それなのに、予感をしている。

ヴェイガンの話を聞いたところでフリットが同情するとは思えない。敵へ弔慰の感情を持ってしまえば、彼女は今までの人生を否定することになる。
己の生き方に自尊心があるのはウルフもフリットも同等だった。だからウルフは彼女の困惑を無駄に切り捨てられない。けれど、このまま後回しにし続けていい話でもなかった。

フリットを困らせる結果になるのは目に見えている。解らなくなると言ったのは本心に違いない。しかし、フリットは自分のことよりも自分以外を優先する。誰かを救いたいという気持ちが強いからだ。
今じゃなくてもいいのだと言ったのは自衛のためではないことくらい、共有した時間の中で知っている。フリットは弱くない。それは彼女が十四の時から変わらない。いや、もっと前から変わらないはずだ。

手を繋いでいない方の手でウルフはフリットの頭を撫でる。ふわふわした髪の手触りは柔らかく、掌に馴染む。

「あ。ちょっと」

撫でくり回せばフリットは表情を変え、眉を片方立てる。流石にもうそんな歳じゃないと抗議していた。けれど、手を振り払おうとしたりせず、逃げずにされるがままになっている。
昔は本気で厭がられたが、今は時折嬉しそうに頬を緩ませる。それでも不服な態度は相変わらずで、そこがフリットらしかった。

頭を撫でていた手を頬まで落とす。空気の変化を感じ取ったフリットが恥じらうように視線を横にした。二度瞬いてから、そっと此方を窺うように見上げてくる。
ウルフはフリットに迫り、彼女の肩に自分の額をのせた。
戸惑って、困っている気配を感じる。

フリットはウルフを自分よりも強い人と認識している。だから頼られているなんて思いも寄らないことだ。だから、こんな風に身を寄せてこられる意味が判らずに首を傾げる。

この体勢ではウルフの顔を見て確認すら取れなくて、固まるしかない。
ただ、唯一気付けたことが一つだけ。息遣いが常のものと違う。調子が出ていないように感じて、さっきのことをウルフは気にしているのだろうと思えた。
頬にある厚みのある彼の手の上から、自分の手を重ねる。それを合図にフリットは伝えた。

「お相子です」

手を重ね合って、体温を互いに与え合うように。
ウルフからの言葉はなかったが、フリットは続ける。

「だって、どちらが上か下かなんて、ウルフさんと僕には必要ないじゃないですか」

対等になるには自分はまだ未熟だ。けれど、ウルフは隣に並ぼうとする此方の存在を厭わない。戦場で、そうだったように。アセムが産まれてユノアが産まれるまでの三年間、この家で一緒に過ごしていた時間も、そうだった。
これからも信じられる。だから、今に拘らなくても充分。

「これだけ。僕はウルフさんのこと、ずっと、好きでいていいんですよね?」

それよりも一番確かめたいことがあって、フリットは小さな声で囁いた。ようやく面を上げたウルフは眇をフリットに向ける。

「それ。昨日のベッドで言えよ」
「っ」

わっとフリットは顔を赤らめた。
昨日言えと言われたが、そもそも会話どころではなかった。喋ることもままならない抱き方をしてきたのはウルフの方だ。拗ねられる筋合いはない。

気を利かせてくれたエミリーが昨日はアセムとユノアを預かってくれた。一日、ずっと二人きりだったことを思い起こして、赤い顔のまま口をへの字に曲げる。

「そんなこと言われたって、昨日はウルフさんが全然大人しくなかったから」

フリットまで拗ねた口調になる。
客観的に見る者がいれば二人して拗ね合っているのを揶揄されたことだろう。しかし、二人だけではただ恥ずかしい一方だった。

こういう空気は未だにウルフも不慣れなままだ。ベッドと口にしたりして自分の得意な方向に誘導しようとしても、フリットがこれでは隠語も青春の一頁になる。

「ったく」

言い草など生意気なのは昔からだ。そういった部分が目についてフリットのことが気になる。気になってやめられなくなって今に至る。

「可愛げねぇな」

そう言いながら顔を寄せてくるウルフの肩をフリットは遠慮気味に押し返す。

「アセムが」
「寝てるぞ、こいつ」

フリットの膝に頭を乗せたまま、アセムはいつの間にかすやすやと眠っていた。
彼女も息子に見られていないことには最初から気付いていた。だから完全に押し返すというところまで力を入れていない。

今一度、フリットの顔をよく見れば、碧の瞳が青みがかって潤んでいる。奪うような荒々しいのを待ち望んでいる。それに気付いた途端、ウルフはフリットの肩を抱いて噛みつくように唇を塞いだ。

待ち望んではいてもいきなりやられたら驚くものだ。緊張してフリットは全身を硬直させた。けれど、ウルフの勢いに応えたくて自ら唇を開いて舌を絡ませる。

「――――ん。ぁ、ふ」

次第に貪り合うような食み合いになるが、どうしても狼に押される。
余裕なく必死に応えていると、脇の方を触られる感触があった。首を捻る前にウルフの手は胸の膨らみを掌で摘んできた。

「!」

そこまでしていいとは言っていないし、望んでもいない。
此処でこれ以上は進めない理由がある。

「待って、ください。アセムが起きちゃっ」

てた。

くるんとした目で母親と父親を見上げていたアセムはフリットと目が合っても、きょとんとしている。

「あー」

ベビーベッドの方からも声がした。隙間から此方をじっと見ているユノアとも視線がかち合った。

「ウ、ウルフさんッ」
「……餓鬼がいると面倒だな」

悪態ではなく、引き下がるための吐き捨てだ。それはフリットも判っているが、言い方が微妙だったためにやや不機嫌な顔を向けてくる。すまんと片手をあげるウルフに反省を感じ取ってフリットはそれ以上の咎めは無しにした。

「そういえば、次の便って何時ですか?」
「そうだったな。今何時だ?」

仕舞っていた腕時計を取り出したウルフはそろそろ家を出た方が良い時間だと口頭でフリットにも伝える。

寂しそうな顔をしたフリットの腕をウルフは掴んでいた。

「アセム、ちょっとだけフリットを独り占めさせてくれ」
「ひとりしめ?」
「そうだ。独り占めしたいから、アセムは自分でお座りだ。男の子なんだから出来るな」
「できるけろ」
「後で肩車してやるから」
「!、わかったー」

アセムはむくりと起き上がると、ソファの端に移動して膝を抱えてちょこんと座る。

「これでいー?」
「上出来だ。流石、俺の子。っと、ハロ、こっち来い」
『ハロ!オヨバレ!オヨバレ!』

ウルフは部屋の中の邪魔にならない片隅で大人しくスリープモードになっていたハロを叩き起こすように呼びつけた。起動音をさせて、直ぐさま跳ね飛んできたハロはぽすりとソファに乗り上がる。

「アセムの相手してやってくれ」
『リョーカイ!リョーカイ!』
「はろぉ」

ハロが手元に来る前からアセムは両手をばたつかせていた。ペットとも玩具ともつかないハロがアセムはお気に入りだった。ふわふわのぬいぐるみより硬い機械に興味があるのだ。

ウルフとアセムの会話はフリットの耳にあまり届いていなかった。ウルフが独り占めしたいと主張してから、その言葉で頭がいっぱいになっていたからだ。
掴まれた腕を引っ張られ、フリットはウルフの腕の中に閉じ込められる。







玄関の外まで総出で見送られることになり、ウルフは大げさだなと少し苦笑する。

「忘れ物ありませんか?」

ユノアを腕に抱いているフリットが問い掛ける。ウルフは頷き、この家にはもう自分の私物は何一つないことを思う。寂しいのか良く判らないが、そんな感じだった。

「強いて言えばフリットだな」
「こんな時にまで冗談言わないでくださいよ」
「冗談じゃなく本気だ」

真正面から言われてフリットは頬を赤くする。

「ウルフさんの移動先に行くことがあったらちゃんと連絡入れますって」
「お前まだ復帰出来ないだろ」
「良い託児所紹介してもらいましたから、来週には戻りますよ」
「おい。そんな話聞いてねぇぞ」
「子供のことは任せるって言ったのウルフさんじゃないですか」

託児所やこれから通うことになる学校などはエミリーと相談している。ウルフはそれらについて知識が乏しいのもあって自ら学業に関する相談事を引き下がった。そう言っていたのは貴方ではないかとフリットは呆れ顔で返す。

「こいつらの話じゃなくてお前だっての」
「それこそ僕の自由でしょ」

何故いちいちウルフの許可を取らないといけないのだ。独占欲を剥き出しにされるのは満更ではなかったが、制限されるのは不本意だった。

「ほんと、可愛くねぇ」
「知ってます」
「昨日はあんなに可愛い声で啼いてたくせに」
「こ、子供達の前でそんな話しないでください」

真っ赤になって抗議してくるフリットを前にしてウルフは笑う。弄りがいのあるフリットはやはり面白い。

笑っている父親と真っ赤な顔をしている母親を見上げていたアセムは「なかよし」と口にする。
フリットの足下を掴んでいるアセムと視線を合わせるためにウルフはしゃがみ込む。

「パパとママらぶらぶだからなー」

ウルフは両手でアセムのほっぺたを挟んだ。思っていたより柔らかくてあまり力を入れないように注意する。

「おひごと?」

ほっぺたを挟まれたままアセムは訊く。
ウルフは両手を息子から離した。静かに苦笑した後でひょうきんに笑みを浮かべる。

「おお、仕事だ仕事。上官怒らしちまって、また移動になっちまった」
「わるいことしたゃ、あやまゆんだよ」
「それで解決したら軍人いらねぇよ」
「そーなの?」
「仕事出来なくなったら困るだろ」
「うん」

ウルフの言っていることは自分勝手な所が多く、訂正しなければならない部分がある。けれど。フリットが口を挟まないのは、ウルフがアセムと話すのはこれが最後になるかもしれないからだ。今後話せる機会があれば良いが、父親と息子として、親子としてはもう難しい。

「いつかえってくりゅの?」
「さあな。上司の機嫌次第だ」
「なにいってぅかわかゃない」
「大きくなったら分かるさ」
「あせむがおおきくなったゃかえってくゆ?」
「そういうことだな」

んーっと。とアセムは考える。それから大きくこくこくと頷いた。たぶん良い子にしてたら早く大きくなれる。そんな風に考えた。

「ママの言うことちゃんと聞けよ」

ウルフは掌を見せる。アセムはこれが大好きだった。ぱちん。と自分の掌をウルフの掌に合わせて叩く。
テレビで見たモビルスポーツレースで同チームのレーサー達がやっていたハイタッチにアセムは釘付けだった。ウルフも息子とのこのやり取りを気に入っている。
ハイタッチを終えると、ウルフは立ち上がる。

「ぱぱ、いってゃっしゃい」

タッチした手をあげて、此方を見上げてくるアセムは事情を何も知らない。帰ってくると信じている息子への感情をウルフは表にしなかった。
次にユノアに視線をやれば、父親を認識した娘が両手を伸ばしてくる。手を差し出せば、人差し指を小さな手が握った。

「ユノアも変な男んとこに嫁に行くなよ」
「あうー」
「……先の長い話してどうするんですか」

流石にこればかりはフリットも口を挟んでしまった。

「フリットに婿探しさせるの心配なんだよな」
「だからお見合いとか早いですから」

ウルフに任せた方が変な虫が付きそうだと、フリットはユノアを彼から隠すように抱き寄せる。
握っていたものが何処かへ消えてしまったと、ユノアは両手を閉じたり開けたりを繰り返す。

「ぱ」

一拍置き、もう一度。

「ぱー」

不意にユノアが口を開き、言葉のようなものがフリットとウルフの耳に届いた。
一番驚いているのはウルフだった。

「パパって言ったか?」
「そう、ですかね?」

珍しく感動を露わにしているウルフを前にフリットも半信半疑に同意する。
はっきりした単語を口に出来るようになるのは生後十ヶ月頃からが平均と聞いているし、アセムは一歳を過ぎてから「パパ」「ママ」を言えるようになった。
だから生後数ヶ月のユノアではまだ早い。
けれど、先程の発音は「ぱ」で間違いないとフリットもゆっくりと驚く。

「フリット、ユノア抱かせてくれ」
「でも、ウルフさんいつも……」

そこまで言って、フリットは口を閉じた。ウルフが子供を抱っこしたいと言ったのは初めてだった。
躊躇いを消してユノアをウルフに託す。

ユノアを腕に抱いたウルフはやはり重いと、変化のない自分の心境を苦く思う。それでも、今、ユノアを抱き上げたいと思ったのは本心だった。腕に抱いて満足している。
アセムは懐いてくれているが、どちらかというとフリットにくっついてばかりだ。だから、ユノアが「パパ」を第一声に喋ったことが素直に嬉しい。

「ユノアはパパっ子かぁ。マジで嫁に行かせたくねぇな」

ウルフは今までユノアを抱き上げることはあっても、すぐに此方に預けて手を離そうとしていた。いつもそうだったから、こんなにも長く、ユノアのことを腕に抱く彼を見るのはフリットも初めてだった。

ユノアが夜の冷え込みにふるふると身体を震わせ始めたので、ウルフはもう離さないといけないと名残惜しそうにフリットへと娘を預ける。

「風邪ひいちまうからもう家に入れよ」
「ウルフさん!」

荷物を持って去ろうとしたウルフをフリットは強く呼び止めた。
足を止めたウルフは、フリットの表情を振り返る。彼女の傍に寄って浅く抱きしめる。

「お前も冷えてるぞ」
「もう少しだけ」

フリットの願いを聞き入れたいが、ウルフは此処へは二度と戻っては来られない。だから、身体をもう離す。

「好きだ、フリット」
「僕、も」

ウルフさんが好きです。と、消え入りそうな声が通った。
告白し合うのはとても久し振りのように二人とも感じた。

「お前は俺のものだ。それは変わんねぇの覚えておけ」
「散々、昨日思い知らされましたけど」

少し恨みがましく、少し恥ずかしげに。フリットはウルフを見上げた。
これは「さようなら」ではないから。だから。

「いってらっしゃい、ウルフさん」

妻としての笑顔で夫を送り出した。







タクシーを拾うために街へと出る道を歩いていれば、向こうに女性のシルエットがあった。
街灯の明かりを受けて彼女の姿がはっきりとする。

「出て行くの、やめられないんですか?」
「こっちの家庭の事情だ。エミリーが口出すことじゃねぇだろ」

そのまま、フリットの幼馴染みであるエミリーの横を通り過ぎようとしたが、彼女の眼差しは無視できるほど軽くはなかった。
まだ何かあるのかと、ウルフは横目を向けた。

「家族を捨てる身分で、よく家庭なんて口に出来ますね」

文句も言いたくなる気持ちは判る。自分でも自分に文句を言いたいくらいなのだから。
完全にフリットに此方のエゴを押しつける形で出てきてしまった。

「シャトルの時間が」
「フリットの好物知ってますか?」
「あ?」

時間はあまりないと言おうとした言葉を遮るようにエミリーは唐突なことを尋ねてきた。
向こうにとっては、此方がシャトルに乗らないように仕組んでいる。そんな思惑があるのだろうと思ったが、それはウルフの早とちりだ。

「もう一度訊きます。フリットの好物、何か知ってるんですか?」
「好物?別にないだろ。あいつ好き嫌い無いっぽいし」
「………そうですか」

悔しそうな声だった。
自分の方がフリットのことを知っているのに。と、そんな思いが見えた。
だから、ウルフは冷たい予感がした。

「フリットのやつ、好きな食いもんあるのか?」
「……どうぞ。もう行っていいですよ」

エミリーはウルフの前から姿を消した。

その背中に問いかけは二度も出来ず、ウルフは自分の拳を強く握り込んだ。そして、言葉なくシャトルの発着場を目指した。目指すしか、なかった。







暗い夜道を進み、エミリーは一件の家の前で足を止める。合い鍵を幼馴染みから渡されているので、出入りは自由にさせてもらっていた。
その合い鍵を取り出してから、憂鬱な翳りを落とす。歩いているうちに頭も冷えるかもしれないと思ったが、怒りは膨らむばかりだった。

昨日は二人きりにしてあげたのだ。フリットにもウルフを引き止めるように言っておいたのに、彼女は送り出してしまった。
きっと、フリットは止められなかったのだろう。悲しんでいるはずだと、エミリーは玄関を開けて、リビングの扉を開いた。

「アセムっ、ちょっとこっち来なさいってば」
「べたべた、やー」

部屋中をばたばたと忙しない足音が駆け回る。
慌ただしく賑やかな声にエミリーは拍子抜けした。

「フリット?何やってるの?」
「エミリー丁度良かった。アセム捕まえてよ」
「え?まぁ、いいけど」

まだ急カーブなどは出来ないようで、とてとてと止まることなく飛び出してきたアセムをエミリーは抱き止める。

「こら。走ったら危ないわよ」
「だってままがべたべた」
「べたべたって湿布のこと?フリット、アセム怪我でもしたの?」
「うん。ちょっとおでこをテーブルにぶつけちゃって」

エミリーはアセムの前髪を上げさせる。
フリットの最初の応急処置のおかげで赤味はない。けれど、触ってみるとこぶがまだ残っていた。

「冷却シート貼ってもいいってアセム言っただろ、さっき」
「べたべた……」
「ウルフさんに貼ってもらってから出て行ってもらえば良かった」

ウルフなら上手く言いくるめて冷却シートをアセムに貼ってくれただろうに。
頭を抱えるフリットを見かねてエミリーは手を差し出す。

「貸して。私がアセムに貼ってあげる」
「本当?」

そう言って、フリットはエミリーに冷却シートを渡そうとした。けれど、それを彼女に届かせる前に止まった。
冷却シートを自分の元に戻したフリットの行動にエミリーは首を傾げる。

「どうしたの?」
「ごめん。僕が貼る」

貼らないといけないんだ。
自分一人で、アセムとユノアを育てると決めたから。
決意の変わらなさそうな表情にエミリーは頑固なんだからと、肩を落とす。

「それならいいけど。こんなに嫌がってるアセムに貼ってあげられるの?」
「う゛」
「ほんとにもう。私も手伝ってあげるわよ」

エミリーは捕まえたアセムと顔を見合わせる。
取りあえず、一つ一つ聞き出そうと幾つか質問していく。

「アセムはベタベタするのが嫌なの?」
「いや」
「ベタベタだけ?」
「べたべたとしゅーしゅー」
「これ湿布じゃないからスースーしないやつよ。大丈夫」

治癒力が早い幼児は湿布を貼る必要はないし、使用していい年齢でもない。しかし、前にアセムはエミリーの家にある湿布を引っ張り出してしまい、それを触った時の感触に対して嫌悪感を持ってしまったのだ。
預かっている時のアセムの様子もしっかりフリットに報告すべきだったと、エミリーはアセムが嫌がる理由に思い当たり反省する。今後はアセムとユノアの様子を詳しく伝えようと気持ちを入れ直す。

「しゅーしゅーしない?」
「ちょっと冷たいだけかな」
「べたべたは?」

エミリーはフリットへと視線を移す。

「フリット、それアセムに触らせてあげて」
「うん?」

冷却シートのビニールを剥がして、フリットは固まっているジェル状のものをアセムに向けて差し出す。そしてエミリーに指示されたことをアセムに伝える。

「アセム、手で触ってごらん」
「ぅぅぅ」

恐る恐る手を伸ばし、指で突っつく。ぷにゅっとした感触にアセムは瞬く。それから何度か突っつく。面白いらしい。

「ぷにぷに。ぺたぺたとぷにぷに」
「これ、おでこに貼ってもいいか?」
「はってはって」

一変して冷却シートを貼って欲しがるアセムにフリットは瞬く。息子の気持ちが変わる前にと、素早くかつ丁寧に額にシートを貼った。

「おおー」

なんだか嬉しそうだ。嵐が去ってフリットは安堵して座り込む。剥がすときも駄々を捏ねられそうだが、先程のエミリーのようにアセムをまず納得出来るまで説得すべきなのだと覚えた。

「有り難う。助かったよ、エミリー」
「何時でも手伝ってあげるって言ったでしょ。家で預かれる時はアセムもユノアも預かるから、心配しないで」
「うん。僕から直接言うべきなんだけど、叔父さん達にお礼言っておいてもらっていいかな。バルガスにも」
「分かった」

エミリーの両親は自分の孫のように、彼女の祖父であるバルガスも自分の曾孫のように、アセムとユノアのことを可愛がってくれていた。特にバルガスはいつも遊び相手になってくれて、預けるときの送り迎えまで率先して車を出すほどだ。
アセムとユノアの方はバルガスをマスコットか何かのように見ているのが気掛かりだったが、エミリーの母親からするとエミリーが赤子の時もバルガスに対して同じ反応だったらしい。

「エミリー、少し待っててくれるかな」
「あ。うん」

フリットがアセムを抱き上げるタイミングで、エミリーはソファに座らせてもらう。目で二人を追っていれば、フリットがアセムを積み木が散らばるところに連れて行く。

積み木が落ちていない空いている場所に息子を降ろし、フリットも膝を付く。テーブルの上に置いてあった積み木も全て床に一つ一つ下ろしておく。またアセムが頭をぶつけたりしないように。

「母さんはエミリーとお話しすることがあるから、アセムは積み木の続きしような」
「つみきしゅる」

そう言ったあと、アセムは近くにいるユノアを見る。カーペットにタオルケットを敷いて、それをベッド代わりに寝転んでいる。ベビーベッドではないのは、つい先程おむつを変えたばかりだったからだ。
起きているユノアは兄と顔を見合わせて、手に持っているうさぎのぬいぐるみをばたばたさせる。

「ゆのあとつみきしゅる」
「アセム、それはまだ出来ないんだ」
「いっしょあそびたい」
「ユノアはまだお前より小さいんだ。積み木を持たせるのは危ないんだよ」
「あぶにゃい?」
「そうだよ。作ったものをユノアに見せるのは良いけど、積み木に触って良いのはアセムだけ」
「むぅ」

アセムは四角い積み木を一つ手に拾い上げて、両手で転がすように触る。
一人で遊ぶより二人で遊んだほうが絶対に楽しい。そう思うアセムはフリットを見上げて、我が儘を言おうとした。
けれど、「ママの言うことちゃんと聞けよ」と父親の言葉を思い出す。

良い子にしてないと早く大きくなれない。自分が大きくなれないと父親は帰ってこない。父親が帰ってこないと母親は寂しい。
母親がまた泣きそうな顔をするのは一番嫌だった。

「あせむひとりでつみきできゆよ」
「よし。じゃあ、アセムがちゃんと守れたら明日のご飯はご馳走にしよう」
「やったぁ」

万歳するほど喜ぶアセムにフリットは満足そうに笑って、その小さな頭を撫でてやる。

「アセムはお母さんのこと大好きね」

二人の様子を見守っていたエミリーが言う。アセムは母親の友達であるエミリーへと大きく頷く。

「うん!ぱぱよりままがしゅき!」

間近でその発言を聞いたフリットは驚いて瞬いている。そんな反応を見てエミリーは喉を転がして笑う。

「あらら。言われちゃってるわね、お父さんは」
「だってぱぱいつもままとぅ。ひとりしめしゅる」
「うわ。独り占めなんて言葉どこで覚えちゃったのよ」
「ウルフさんに決まってるだろ」

立ち上がり、フリットはソファまで歩き寄りながら言った。エミリーの横に腰を下ろして仕方のない人だからと吐息を零す。

「それで、今日は何かあった?」

連絡を貰っていなくても、何の用もなしにエミリーが家に来るとは思えなかった。特に今日は。

「何かあったのはフリットの方でしょ」
「別に。今生の別れってわけでもないじゃないか」
「引き止めなかったの?」
「そんなこと出来ないよ」

上からの移動命令では自分が取り下げることは不可能だ。そう続けたフリットにそういうことではないと、エミリーは横に顔を振る。

「家まで出て行く必要ないじゃない」
「それはウルフさんが決めることだ」
「家族なんだから、フリットだって口出しして良いことなのよ」
「良いんだ、これで。ウルフさんを苦しめたくない」
「何よ、それ。そんなことあるわけない」

苦しいのはフリットの方だ。こんなにも想っていながら、一人にされて。
どんな理由があろうと、フリットを優先すべきではないのか。フリット以上に大事なものがあるわけないのに。

「あの人、フリットの好物だって知らなかった……ッ」
「何の話?」
「フリットの好きな食べ物知らないのよ、ウルフさん」
「僕、何か好物あったっけ?」
「!?、ミートスパゲッティでしょ!」
「あー。うん、そうだね。好きかも」

いつの間にか立ち上がってしまっていたエミリーは脱力してソファに座り直した。フリットは自分のことに無頓着だったことを失念していた。今、好物を指摘されて確かに一番好きな食べ物だと思うと感慨深げに頷いている。
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、ウルフに悪いことをしてしまったとエミリーは溜息を零した。

「なんか。ごめん、エミリー」
「いいわよ、もう」

エミリーの反応に首を傾げながらも、自分が何かおかしかったみたいでフリットは謝罪した。
呆れて何も言えなくなったエミリーだったが、表情を改め、深呼吸してから尋ねた。

「ねぇ、フリット。どうして、ウルフさん出て行ったの?」
「知らないよ」
「え?知らないって、何で。理由くらい聞いてるんじゃないの?」
「聞く必要ないだろ?」
「必要大ありよ!」

そのことに関してウルフに欠点は何もないとしているフリットの顔色にエミリーは納得出来なかった。
激高する幼馴染みにフリットは微苦笑を零す。自分以上に此方のことを考えてくれているエミリーにフリットは申し訳なさを感じるほど感謝した。

「結婚しないのは前線に出られなくなるからって理由を聞いたから私も納得した。子供はちゃんと育てるって言ってたし、でも、その約束を破ったのよ」
「僕は約束なんてしてないんだ」

約束なんて出来る間柄ではない。それぞれが目指す先は、約束をすれば叶わなくなるものだったからだ。
言葉で確かめ合わなくても、お互いにそのことを感じ取っていた。

「ウルフさんにだって思い悩む権利はある。だから、責めないでほしい」
「置いていかれて、辛くないの?フリットは」
「……辛くないって言ったら嘘になるけど、僕は置いていかれたなんて思ってない。ウルフさんは僕達から離れていったわけじゃないから」
「どういうこと?」
「いってくるって言ったんだ。この家にはもう戻ってこないだろうけど、帰ってこないだろうけど。いってらっしゃいって言ったら、いってくるって言ってくれた」
「そんな普通のこと」
「うん。普通。普通に結婚して夫婦になることが出来なかったのに、普通にいってらっしゃいといってきますをしたんだ」

その話を聞いて、ようやくエミリーは理解した。そして、再び悔しく思う。
こんなにも想われているのに、こんなにも信頼されているのに、こんなにも敬われているのに。

「フリットの気持ちは分かった。けど、やっぱりウルフさんのこと責めずにはいられないわ」
「ウルフさんにも事情はあるから」

納得いかないとエミリーが憤慨を顔に称えている様子にフリットは眉を下げる。困ったなと、どうにか説明しようとする。
しかし、上手い言葉が見付からなくて黙り込む。沈黙しているのはエミリーも同じで、彼女の沈む顔にフリットは感情を動かされる。エミリーのか細い手を見遣れば、指先が赤かった。
その手にフリットは自分の手を重ねる。冷たくなっている手を温める。

「僕にはエミリーみたいに僕のことよく解ってくれてて味方してくれる人がいるけど、ウルフさんはそうじゃないと思う。だから、さ」
「フリット、ちょっと待って」

聞き捨てならない発言だと、エミリーはフリットの言葉を途中で止める。

「ウルフさんにもいるでしょ?」

思い当たらないと、フリットはきょとんとしている。ラーガンとかミレースだろうか。旧知の人達を頭に浮かべていたフリットだったが、続けてエミリーが口にした人物に驚くことになる。

「フリットよ」
「え」
「気付いてないの?フリットは今、ウルフさんの味方してるのに」
「僕、が?」

フリットにはエミリーがいるように、ウルフにはフリットがいる。
自分がウルフにとって、そんな存在であるのだと言われ、フリットは躊躇う。そのように考えたことはなかった。

「そうかな……そうだと、うん。そうだと、凄く嬉しい」

咲くような笑顔をしたフリットにエミリーは頬を染める。何だか当てられた気分だ。

「フリットのその笑顔に免じて、ウルフさんのことはこれ以上責めないでおいてあげる」
「有り難う、エミリー」

ほっとした笑顔は自分に向けられたもので、エミリーは仕方ないと受け取る。
温かいフリットの手で、いつの間にかエミリーの手も温かくなっていた。

話も一段落し、フリットはお茶を淹れようとソファから立ち上がる。起動しているハロが後ろについてくる。
フリットは足下にハロを伴いながら台所に向かうが、途中でアセムに呼び止められた。振り返れば、アセムが満面の笑顔で組み立てた積み木を指差し、ユノアも明るい笑い声をあげている。

「みてみて。ままみてー!」
「どうした。何か作れたのか?」

フリットはアセムの傍にまで寄って、しゃがみ込む。
そこには最初にアセムが作っていた建物にしか見えない銅像。そして銅像の横には、他にも色はたくさんあるのに白い積み木だけがたくさん縦に積まれた棒状の何かが立っていた。

「かっこいーでしょ!」
「とても格好良いな。もしかして、モビルスーツか?」
「そう!」

母親ならば判ってくれると信じていたとアセムは目をキラキラさせる。

「何のモビルスーツか教えてほしいな」
「じーぐ」
「ああ。Gエグゼスか。成る程」
「これままのかんたむ」

銅像、Gエグゼスの横にはフリットが何となしに積み上げていたガンダムっぽいものがあった。途中積みだったが、ウルフがアセムを肩車しながら荷物の確認などをしている間に途中やりが気になっていたフリットは完成させていた。
アセムのはしゃぐ声にエミリーも近くまできて、力作を覗く。

「お父さんとお母さんの機体ね」
「ぱぱとままいっしょ」

同じという意味ではなく、隣にいるという意味だ。
一緒と言ったアセムの言葉にフリットは膝に置いていた手をぎゅっと強く握り込んだ。

「アセム……」
「おかたづけ?」
「お片付けは明日にしよう。だから、明日まで、これ……ここに置いといてくれないか」
「おかたづけしなくていーの?」
「本当は片付けないと駄目なんだけど、こんなに立派なもの今すぐ崩せない。明日一緒にお片付けしような」
「あしたおかたづけしゅる。でもつかってないのいまおかたづけしゅる」

そう言って、転がっている積み木を拾っておもちゃ箱に戻すアセムの行動は良くできた子だ。しっかり教え込んでいるのだなと、エミリーは感心する。たまにエミリーの自宅で預かりもしているが、行儀がとても良い。よその家だからと思っていたが、常日頃からの賜物だった。
特に、妹ができてからはそれが顕著だ。

「ユノアが産まれてからアセム一段とお兄さんらしくなったわね」
「うん」

フリットも息子の成長に喜んで頷いた。
そして、組み立てられている積み木へと視線を戻して、湧き出る感情を噛みしめる。

Gの名を持つ二体のモビルスーツと英雄を称える銅像。
予知ではない未来が、そこにあった。





























◆後書き◆

ウルフさんが家を出て行く話。「Nieselregen」でディケと話している最中、ウルフが心境で語っていた部分になります。こういうことがあったよ、と。
フリット25歳、ウルフ34歳、アセム3歳、ユノア生後6ヶ月前後。の頃。

アセムはお母さん派なんですが、父親の言葉を真似したがるので小さい頃は「パパ」「ママ」呼びしてました。ウルフさんが家にいなくなってからは言葉の手本がフリットに集中するのである時期から「母さん」になっている流れ。

エミリーがウルフに立ちはだかっているところは「Weiβ Hochzeit」で触れていた一部分を広げて、詳細をば。

Kreative=創造

更新日:2016/12/30








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