◆Knoten◆









「あー、休憩するか」
「お前なぁ、さっきもそう言ってサボってたばかりだろ」

ブライアンに咎められ、カーターは形なりに頭を下げる。

「けど、隊長がいないと手持ち無沙汰というか何というか」
「あの人、全く休暇取ろうとしないからな。宿舎にいてもいつもと大して変わらない仕事してそうだ」

同感だとカーターは頷く。しかしと、こんな風に隊長のことを話題にするようになったのは、つい最近のことなんだなとも感慨を抱く。
男尊女卑であるべきだと考えているわけではないが、男の自分達からしたら女が隊長というのは些か不満を憶えるのが普通ではないだろうか。周囲からもそれで突っかかれたこともある。以前よりは減ったが、今も悪い意味でのからかいは無くなっていない。
矛先の本人が気にするなと言うので、それらの言に口出しはしなくなった。それでも支(つっか)える気持ちは取れず、この間それとなく不服気味に隊長に一度くらい報復しても罰は当たらないのではないかと零してみた。けれど、返ってきたのは有意義でないといつも通りの素っ気ない答えだけだった。
前よりも信頼関係は築けていると感じているが、そういう部分はやはり変わらない人だなと思う。

「おーい、マラット!終わってない作業あったら手当たり次第にカーターに寄越せ」
「え?あ、はい。了解です」

基礎体力維持のためのトレーニング後は機体のメンテナンスで、詰めるものと詰めないものでは各自の作業濃密は格差が出る。チームを組む場合は僚機の癖を理解している方が有利なため、仲間の機体整備を手伝うことは珍しいものではなかった。

突然呼びかけられて顔を上げたマラットは返事を返すが、ブライアンの隣で何か憤慨した様子のカーターを目に入れて、彼らのやり取りを心得る。
此方の作業も大方終わってしまっているので、回せる仕事もないのだがとマラットは他のメンバーはどうしているかと周囲を見回した。その時に格納庫の出入り口で見知ったようなそうでないような人影に首を傾げる。医療班の制服に身を包んでいるのはエミリーであるが、彼女の後ろで戸惑った足取りの女性は誰かと考える前に気付く。

「アスノ隊長?」

ぎくりと身体を震わせた彼女に合わせてスカートが揺れた。少し短すぎると思う。
マラットは瞬くが、そういう格好もするんですねと疑問を納得に置き換える。
何だ何だと整備士達がフリットとエミリーの方に視線を向け、隊のメンバーはぎくしゃくした動きでマラットの近くにまで行き、足を落ち着ける。

やっぱり無理だと後退しかけたフリットに気付いたエミリーは彼女の後ろに回り込んで前に押し出す。
ミーティングなどで注視されるのは平気だったが、胸に不安ばかりがある現状では注視に耐えられないとフリットは身を固くした。

マラットの周囲に集ってきた彼らは遠目の時からそんなはずはないといった面持ちで近づいて来たが、間近にしても半信半疑の驚きは隠せない。
そもそも髪型からして見慣れたものではなく、下ろした髪を耳のサイド部分だけ後ろにまわしてピンクのリボンで結われていた。目にした途端に誰か見当も付かなかったが、あの髪色の持ち主は限られる。
私服で軍施設を歩いてはならないという規定はないが、休暇の使い方は大概宿舎か自宅に籠もるか街に出掛けるものだ。たまに私服姿を見掛けても、軍服と大差ないシンプルに統一したものだった記憶が彼らにはある。

「貴方達、どこか変だと思う?」

エミリーがフリットの後ろから顔を覗かせて七人を見渡す。彼らはフリットを上から下まで、下から上へと視線を往復させたうえで首を横に振る。
フリットがこのような服装を好んでいたとしてもそれは変と言うよりもイメージが違っただけであり、おかしくはない。

Aラインのワンピースとチュニックを重ねているが、丈は短めで、膨ら脛まで覆うブーツを履いていても覗いている素足が眩しく感じられた。
ありふれた服の合わせ方だが、誰が見ても着ている人物を含めてふんわりした印象を持つ組み合わせである。

「ほら、変じゃないってみんなも言ってるじゃない」
「言ってはいないじゃないか」
「こういう時ばっかり揚げ足とるような返し方するのやめたら?」

微細な事実の修正を行おうとするのは咎めるほどのものではないが、着替えさせてから「似合ってない」だの「短いスカートは無理」だのと意固地なことを散々言われたのだ。エミリーの口調も少なからず棘が出始める。

押しには弱いというか、強く出られると一度自分の立場を振り返り考えてしまうフリットは押し黙る。その様子にエミリーが吐息すれば、後ろからの気配に気付いて振り返る。
つられてフリットもエミリーの動きを追いかけて、固まった。

「フリット、此処にいたら汚れるだろ」

ジャケットを腕に抱えていたウルフは反対の手でフリットの手首を掴んで引き寄せ、そのまま引っ張るように格納庫から連れ出して行ってしまった。

風のように過ぎ去った出来事にアスノ隊のメンバーは顔を見合わせて首を傾げつつ、詳細を知っていそうなエミリーに視線を流す。
エミリーは視線を全て受け止めつつ、見ての通りだと肩をすくめて微苦笑した。

そこへ、背後を気にしつつも格納庫に足を踏み入れるラーガンの姿があった。彼は格納庫では滅多に見掛けないエミリーに気付くと納得した様子を見せて後ろを気にするのを止める。

「ウルフのやつ、不機嫌な顔してたぞ」

先程ウルフとフリットが横を通り過ぎていった時の様子を話せば、エミリーは腰に手を当てる。

「ウルフさんにも甲斐性持ってもらいたいところですけど。フリットがなかなか部屋から出ようとしないからですよ」

ウルフとしては自分より先にめかし込んだフリットの姿を他の男に見られるのは嫌だということだろう。そうラーガンの言から読み取れる。

ほぼ同じ所に住居があるのだから、街で待ち合わせは不効率だと断言したのはフリットだが、この結果では選択ミスだろう。待っている間にもごちゃごちゃと考えるのは目に見えているが、真面目な性格のため、待ち合わせ場所からいなくなるという事態だけは彼女ならばやらない。
それなのに、準備が出来たらウルフの部屋まで迎えに行くとフリットの口からズレたことを言われたエミリーの気持ちを考えて欲しい。

常識が無いわけではないのに、何故そんなことになったのか。相手を意識しすぎてのことと結論が直ぐに出てくればエミリーは呆れ半分になる。けれど、もう半分は微笑ましいというものだ。
だからこそ、デート服を見立ててもあげた。化粧もされるがままにじっとしていたフリットであったが、姿見を見てから部屋から出ることを拒んだ。
フリットのことだから「自分らしくない」とでも感じたのだろう。それ故に、らしくない自分をウルフに見せることに抵抗を覚えたわけだ。

「それで此奴らに意見訊きに来たってことか」

ラーガンは納得したと頷くが、あれでフリットは大丈夫だろうかと心配を覗かせる。ウルフは八つ当たりなどをしない男ではあるが、意外と独占欲は強い。
そのあたりをエミリーは危惧しているというか、あまり肯定的でないことをラーガンは知っていた。それでも彼女の御眼鏡に適っているのは、フリットが本人の自覚以上にウルフを受け入れているからだろう。

しかし、彼らに意見を訊きに来たのは。

「少し逆効果だったんじゃないか?」
「……ラーガンも結構心配性ですよね」

想定外の切り返しにエミリーも大人になったなと感じると共に、見透かされていると頭を掻く。

「私はまだ仕事がありますから。あと、反感買っても知らないですからね」

そう残して医務室へ向かうべく背を向けたエミリーにやはり何もかもお見通しかと、バイザーを掛け直した。その目を足下に転がってきたハロに落としてから、隊長を除くアスノ隊のメンバーに注ぐ。彼らは一様に顔を見合わせ、此方を向き直したかと思えば意を決したように頷く。二人ほど曖昧な頷きだったが、チームとして統一は必要不可欠だ。この場合違う気もするが。












ショーウィンドウに薄く映り込む自分と隣の男を歩きながら視界に入れ、胸中で考えを零したフリットは視線を自らの足下へ落とす。
途端に手を取られて、引き寄せられた。少し驚いて顔を上げれば、ウルフが顎をしゃくる。其方に目をやれば、マウンテンバイクの後輪が目に入り消えた。
前を見ていなかった自分の不注意だとフリットは謝罪しようと口を開いたが、それを言い切る前にウルフは手を離さずに歩き出す。

街に来てからはただ隣を歩いていただけだが、基地で腕を引かれるのとは別の類の繋ぎとリードがウルフからもたらされた。
危ないから手を引いてくれただけだ。謝罪を言おうとしたのに避けられたのは、ウルフにとってはそうするのが当たり前であり、何かを言われる筋合いはないから。
それでも、手を繋いだままなのは何故だろうかと、フリットは首を横に向けながらウルフを見上げる。

カーキ色のミリタリージャケットに瑠璃色のジーンズ。白一色に拘るのは基本的に戦いの場だけだというのは知っているが、やはり珍しく思う。ジャケットの中に着ているシャツは白だけれどと思ったところで、彼のネックレストップに目が行く。狼モチーフのそれは分かりやすく、ウルフそのものを表していると感じてフリットは緊張を解く。

知らない誰かと歩いているわけではない。いつもとは少し違うが、いつも通りだ。優しさが分かりづらいのも相変わらずだと、繋いでいる手をぎゅっと握り返した。
瞬きを一つして此方を窺ってきたウルフが勝ち誇ったような笑みを零すのに、フリットはふいっと視線を外す。

そこで目に入ったのは、二人一組で歩く男女の姿だ。見渡せば、親子連れの他にそういった二人組がいくつかある。周りからしてみれば、自分達もそう見えるのだろうかと小さな疑問をフリットは抱く。
兄妹と説明した場合に納得する人が少なければいいと思ったことに、首を横に振った。誰から見ても、そういう関係に見られたいと思っているようではないかと。

「フリット」
「何ですか?」

相手が立ち止まるので合わせて足を止め、フリットは視線を上げる。

「余所を見てる暇があるなら、俺を見てろ。何のために手を繋いだと思ってる」

言われ、上げた顔を逸らそうとしたが、それではウルフの意思に反するのかと考えている僅かな時間の間に首筋から熱が溜まる。どうしようと迷い、フリットは視線を落とした。互いを繋ぐ手と手に。
ウルフの「手」を見ているのだから問題は無いはずだ。だからフリットはウルフからの反応を待ったが、それよりも先に彼は歩き出した。

歩く速度や繋ぐ手から伝わってくる握力から、相手の意に反していないと知れるが、こういう時の正しい解答とは何であろうかとフリットは自分に疑問した。
どうすれば。どうなれば。
自分がこうしたいでは駄目なのではないかと思う。自分一人の問題ならば、それでいい。けれど、向き合う相手がいるならば、相手のためを考えたい。考えなければいけないという義務じゃなく、ただ、そう思い感じるだけの。

誰かのためと行動しても、それらは自分に跳ね返ってくる。無意識下に利益や損得の計算をしていないとは断言出来ない。打算は何処かにある。
しかし、そういうものを捨てる必要はないとも思っている。考えること自体を放棄することになるからだ。結局のところ、人とはそういうものでしかない。
そうでしかないのだが、ウルフがどう受け取ったら自分にとっての利となるのか想像が付かなくて、フリットは横顔をちらりと見上げた。

二人だけで街中を歩いたりするのはあの時以来だなと思い返す。ウルフに連れ回されて為すがままになっていたが、遅れたりしたら気遣いはしてくれたのだ。だから、いつも反応に困る。苦手なのだと思う。けれど、手を離したいとは思わなくて繋いだままでいる。
すぐ横を一組の男女が横切っていき、女性が男性の腕に甘くしがみついていた。男性の方に嫌がった素振りはなく、むしろ満更でも無さそうな態度であった。
ウルフもああいったのを好むのだろうかと、フリットは空いている手を持ち上げて、自分の手を繋いでいるウルフの腕に伸ばす。

『人気のアイスクリームチェーン店が、ノーラストリートに八号店として昨日からオープンしています!』

しかし、目に入る距離でマイクを持った女性の声に、我に返ったように一度動きを止めたフリットは左手を引っ込めた。
あまり、自分らしくない行動を取るところだった。急に心臓が焦りだして、声のした方に視線を向ける。

ポップ調の明るい店先に多くの女性と家族連れが列を成していた。メニューリストのチラシを配っている店員にマイクを向けるキャスターをカメラマンが映像に収め、それらを取り囲む数人の報道スタッフが各々の仕事に励んでいる。

「冷たいもん食いたいか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」

暑いと感じる気温ではない。話し掛けられたことで、先程しようとしたことを勘づかれているのではと言葉が億劫気味になる。

「まだ、買い出しもしてないですよ」
「荷物持って並ぶ方が面倒だろ」
「だったら、別の店でも良いじゃないですか」

先程のは気付かれていないようだと、フリットは足りない日用品の物資調達の後に休憩を取ればいいと提案する。買い忘れがあったら、まだ店先の近くにいれば手間が少なくなるからだ。

「――お前はそうだよな」
「何がです?」
「こっちの話だ」

気にするなと言うが、腑に落ちない顔をフリットはする。何度も此方を意識している視線を感じるが、今日一日の目的と効率を覆す考えは彼女の中にない。
もう少し遊ぶことを覚えても良いと思うが、本人に全くその気が無いのならば構わないかとその場を後にしようとウルフはフリットの手を引く。

歩き出しのリズムをフリットは少し崩したが、すぐに持ち直す。アイス店をそのまま通り過ぎた頃合いだった。
報道スタッフの一人が隣の同業者に耳打ちし、女性キャスターが店員に挨拶をし終えたところでスタッフが伝える。確証はないというスタッフの表情と声だったが、キャスターはそちらに目を向けた。

「すみません。今日はどちらへ行かれるんですか?」

追いかけ、一般人のアンケート調査を装う質問を投げかける。すれば、銀髪の男が振り返り、隣の女性も追いかけるように振り返る。
後ろから声を掛けてしまったので、振り返った動作で二人が手を離してしまった。けれど、証拠となるものは撮れているだろうとカメラマンを一瞥してから、キャスターは男の顔を確認してから今気付いたかのように表情を動かす。

「もしかして、ウルフ・エニアクルさんではありませんか?」
「そうだが」

色々と納得してウルフは苦笑を持って答えた。こういう空気とはご無沙汰であったが、昔に身に染みついたものは忘れるものではない。

「このコロニーの連邦軍基地に所属していたんですか?」
「つい最近にな。基地を転々としてるから長いこと留まらないかもしれんが」
「トルディアに来てから何か作戦などに参加されたんでしょうか?」

しかし、サービスはしきれない。自分が優先したいものを最優先にするならば。

「いくつかな。すまんが、連れがいるからそういう話は今度にしてくれ」
「お連れの方は恋人であられると見受けられますが」

だが、それが相手の思う壺であったことにやにわに気付く。
ターゲットとして照準を合わせられたのが自分になったことにフリットは瞬く。左右を窺うフリットの仕草にまだ認めないかとウルフは竦める。

「今日はデートですか?」

にこやかにキャスターは尋ね、フリットにマイクを差し向けた。

「物資調達です」
「………」

キャスターと後ろに控えているスタッフ一同が無言になる。
考え方が硬いからなこいつと、ウルフはフリットを見遣る。要領が良いから柔軟な発想をする必要性がないのだ。
それと、軍人として向き合うつもりだろう。

「我々は配給で間に合わない物資を今日中に調達しなければならないので、失礼しても宜しいでしょうか」
「貴女も軍の関係者なんですか?」

フリットは一度ウルフを見上げてから、キャスターに視線を戻す。

「彼より階級は上ですが」

その一言に報道陣がフリットとウルフを見比べる。基地内ではこういう反応はないので、ウルフは他人事のように新鮮だなと感想を持つ。
真偽を問う視線が寄越され、ウルフは頷き返す。
今一度フリットに視線が戻り、彼女は仕方ないとIDカードを差し出して身分を証明した。確認したキャスターは動じた様子を見せずに畳み掛ける。

「先程、手を繋いでいらっしゃいましたよね」

疑問を声にのせれば、はぐらかされてしまうだろうと、断言を強くして訊く。
すれば、淡々としていたフリットの表情が弱いものに変わる。ウルフの後ろに身を引くように斜めに一歩下がったのだ。

「やはりお二人は、」
「その辺にしといてくれるか。軍事機密もあるしな。それに、手を繋いでたのは、こいつが街にあんまり出歩かなくて危なっかしかったからだ」
「外に出ないような言い方しないで下さい」
「事実だろ。一週間も同じ場所に引きこもってたのは誰だ?」

つい最近のことなので、フリットは反論出来ずに口を噤む。
やり取りが大人と子供のようで再び見比べるような視線が注がれる。これでは埒があかないとウルフはフリットの手を取ると耳元で一言。

「走れ」
「え?」

疑問したが、身体は言われた通りに行動を移していた。自分の中に異論が無かったのと、隊長を務められる実力がある人間からの指示だからであった。
引き留めようとする声が後方からするが、それよりも後ろの方から騒がしい音が聞こえてくる。確認しようとしたが、ウルフが速度を上げたので、振り返る暇は無かった。












街中から外れ、二人が足を落ち着けたのは公園だ。平日の昼前という時間帯のため、老夫婦とベビーカーを押す母親の二組だけしか見当たらない。

噴水近くのベンチに腰掛け、フリットが隣を窺えば、背もたれに肘をのせて横暴に座っているウルフが目に入る。そのことはいいのだが、予定が狂ったなと視線を落とす。
ノーラストリートの方で買い出しを済ませるつもりだったが、あの報道陣が去る時間帯となると夕方頃だろうか。別のストリートまで行くとなるとモノレールに乗る必要があり、乗車場まで行くにしても一端ノーラストリートに戻らなければならない。

「ウルフさんなら適当にあしらえるものだと思ってました」

口に出してしまってから、愚痴っぽくなってしまったとウルフから顔が見えないように逸らした。

「ああいうのは一先ず相手をせんとしつこい」

フリットの言に気にした様子は見せず、ウルフは事実を告げた。それに、フリットは顔を上げて彼と向き合う。

「無秩序なことを流されても良いんですか?」
「お前、ニュースに一通り目を通すくせに否定的だよな」
「……見当外れな予測を流して、それを伝える側も伝えられた側も鵜呑みにすることが納得出来ないだけです」

ヴェイガンのことを異種生命体のような報道をしなければ、災害以上の危機感を周囲は持っていたのではないか。それなりの対策も連邦側で講じられたのではないか。
考えれば考えるほど、悔しい思いばかりが積み重なる。所詮は自分の身勝手な意見でしかないことも重々承知の上だが、現状の報道関係の内容にあまり変化は見られない。

「真剣に見聞きしているのはお前みたいに真面目な奴だけだろ。他の奴は選択肢か考えの一つにしかしないんじゃないか?」
「それでも、地球圏全土に渡るものです。流した内容自体に責任が負荷されないことに疑問は残ります」
「だから情報の上書きはするだろ」
「正しい情報に行き着くまでに、何度も上書きを重ねるのは非効率的です」

胸中で頷く間を持って、ウルフはフリットが言った言葉を自分なりの言葉に換えて反芻する。理解出来ない内容ではない。ある程度自分の中にもそういう疑念があるからこそ、フリットの意見に沿う部分はある。完全一致とまではいかないが。

「上書きが繰り返されているなら、疑問を持つ奴も増えるだろ。俺だって、耳に入ってくる全てを信用はしとらん。自分の目が見たもの以上に現実味のある事実なんてないからな」

最後の一言にフリットは膝上にのせていた手をぎゅっと握りしめる。ウルフと自分では意見が噛み合わないが、辿り着く着地点が似ていると。真実とは自分の目の前にあり続ける。
フリットもウルフも、自分自身を信じられる人間だからこその結論だった。
すれ違う感覚はない。だから、一緒にいられない人ではないと思う。けれどと、フリットは木陰で赤子をあやしている母親の姿に目を向ける。

形のずれではない。距離の違いだ。
ウルフは未来という先を重視していない。少しも考えていないということはないだろうが、はっきりと見据えていない。自分が見ている現在が真実であり、目的だ。彼が子供は未来そのものだと考えるのは、未成熟なうちは夢を持って進むことが出来、それを望んでいるからだろう。大人になれば、理想と現実の違いが突きつけられて袋小路になる。おそらく、ウルフはもう見切りを付けているのではないかと。
目の前の事だけで手一杯ではないだろう。余力は気遣いなどにまわされているのだ。自分にそこが欠けているのは、部下達の不満を気に掛けていなかったことからも証明付けられる。同じ方向を見ていても、自分はずっと先にある理想のことを考えている。達成するまでは、今だけを見ることは出来そうにない。

母子の姿から視線を逸らそうとしないフリットにウルフは自分も母親とその腕に抱かれている赤子を一度見て、視線をフリットの横顔に向ける。
まだ告げていないことがフリットにあると、ウルフは背もたれから肘を離す。
ウルフも同じ方向に一度だけだが視線を流したのを分かっていたフリットは、彼が何か言う前に口を開く。

「僕も、母さんにあんなふうに抱き上げてもらっていたんでしょうか」
「どうした?」

出鼻をくじかれたのは偶然ではなさそうだなと、そう胸の底に落とし、ウルフは耳を傾ける。

「良かったこともあります。でも、嫌なことばかりが記憶に遺る。母さんとの思い出の中で一番強く覚えているのが………母さんの、最期です」

かつての出来事だが、過去に置き去れる記憶ではなかった。

「だから、どんなふうに育ててもらったのか思い出せないんです」

感情を出していなかった表情が、仕様がないという眉を下げた苦い微笑になる。どうにもならないことだと無理に割り切っているように見え、やりきれない感情が静かに湧く。

フリットが自らの家族について話してくれることは今までに無かった。
彼女の生い立ちはラーガンから掻い摘んで聞き及んではいた。納得は出来たが、しかし、ウルフにとって子供が戦場に出ても良いと割り切る理由にまではならない。模擬戦でフリットの実力を認めることが出来ても、軍人でもない子供がモビルスーツに乗ることを容易く受け入れきることは出来なかったのだから。

彼女の現状に異論はないし、自分が焚き付けてしまった部分もある。だから、このやりきれなさは手を出せない領域だと知っているからだ。同情を嫌がらないだろうが、苦笑が濃くなるだけだ。そのくらいの想像は付く。

理屈で語るのは得意じゃないと、ウルフはベンチにもたれかかっていないフリットの背中を小さく叩く。振り向いたフリットは少し虚を突かれたような顔をしていた。

「抱っこなんて特別なことじゃないだろ」

聞く人間によっては反感を買う言い方だろうと判ったうえで、ウルフは言う。希薄になった記憶だとしても、与えられた愛情を忘れているわけではないはずだからだ。

「お前の親がどんな人間だったかなんて知らんが、母親は子供を抱き上げる。フリットって名前がお前に与えられているように、当たり前のことだ」

名前、と呟いたフリットはゆっくりと何かを思い出したようで、視線を少し持ち上げた。

「母さんが、名付けてくれました」

どんな想いからそう名付けられたかまでは覚えていないが、その事実は思い出せた。ウルフが自分の名前は嫌いかと問うてきたのに、フリットは首を横に振って否定する。
親に不満を覚える時期があったウルフからすれば、素直に育てられた印象だ。

「エミリーやラーガンから名前で呼ばれるのも嫌じゃないです」
「俺からは?」
「ウルフさんから、ですか?」

予想していなかった返しにフリットは瞬き、えっとと時間を置く。けれど、幾ばくか顔を寄せてきたウルフがフリットの耳に掛かる若草色の髪をうなじ側に掻き、耳元で。

「フリット」

いつもと変わらない声色であったにも拘わらず、フリットはひくっと身を揺らした。ウルフからならばと前振りされていたことで意識しすぎていたからだ。

恥ずかしさに俯くが、此方の髪を梳きながら返答を待っている気配が傍らにある。
記憶が薄れても、与えられて覚えているものがあることを気付かせてくれた恩に応えるべきだと思う一方で、言葉にしにくいと内心で唸る。
その様子にウルフはこのあたりは素直になれないかと、髪から手を離す。

「今もデバイス持ってるだろ」
「……はい」

小さなバッグに手を添えたフリットはそちらに視線を落とす。話題が変わったが、まだ続いているのは分かる。

「それを肌身離さず持つことで、継がれた遺志がお前の中にあるってことじゃないのか?」
「母さんの――」

それがフリットを縛り、雁字搦めにしていると確信に近い思いがある。しかし、フリットを通して想像得る彼女の母親はそう望んでいないように思えた。ただ、確証があるわけではない。推測で自分が言うべきことでもないだろう。もし、フリットの母親が本当にそう願っていたなら、フリットはいつか必ず気付く。
だから今は。

「ま、お前がやりたいように決めればいい。間違ったり失敗しても何とかなるもんだ」
「楽観的ですよね」
「いや。お前だったらどうとでも出来るだろって意味だ」

親の教えをそっくりそのままなぞる必要はない。同じことをしようとしても、何かが違ってくる。違いを不利とせず、自分のものだと認められれば、受け継ぎながらも新しく得ていけるものだ。

「買い被りすぎです」

ふいっと顔を背けた仕草は拗ねているように見受けられるが、髪の一房だけを三つ編みにした毛先を指でいじりながら首を竦めるフリットに照れているのかと、此方から見えなくなった頬に手を差し入れて強引に自分の方を向かせた。
眉を寄せるのは不服の表れだが、一度視線が合った瞳は瞬きをして逃げ道を探している。

突然強制的に出てきたウルフの行動にフリットは戸惑う。それ故に表情を改めている余裕もなく、あまり見られたくないものを見られた。
褒められること自体はフリットにとって珍しいことではない。バルガスやブルーザー、ラーガンにも褒められたことは何度かある。しかし、それはいつも自分が何か出来た時だ。今のは違う。結果からのものじゃない。
無条件に託されている。別の言い方をすれば、信頼されているということだ。それはつまり、褒めるに値する人だと言っているようなものではないか。だから、身構える準備が出来ていなかった。

自分には出来て当たり前だと思い込んでいたことを、他人から改めて確証込みで存在を肯定されるのはむず痒さを覚える。そして、誰よりも、ウルフに認められるのはフリットにとって第一に嬉しいことだった。
考え方も生き方も違う。それでも妥協などではなく、決着点としてそれでいいとしてくれる。似ていないから、憧れのようなものを彼に抱いている。
思い、憧れという響きの甘さに身が縮む。それのようなものであって、憧れそのものではないと自分の中で否定を作る。眉を詰めたのはそれが原因だ。

不満があるなら、ウルフの手を退かせば良いのだが。如何せん、そういうことではない。
今の状況はウルフが無理矢理にやったものだが、それ以前の会話で気分が高揚してしまっているのがいけない。
なけなしの虚勢で目を合わせないままでいれば、左頬に添えられたままの手が指の腹で此方の肌を撫でてくる。嫌でない感触にフリットは眉間から力を抜く。それを勝手に了承と受け取ったウルフが手と挟み込むように反対側の頬に自らのそれをすり寄せた。
いつもならもう少し荒っぽいのになと思う一方で、ぼんやりと思考がままならなくなる。いけないと、もう一度胸の内で言葉にしたが、耳裏に寄せられた鼻先がすんすんと嗅いでくる行為がくすぐったく、自制どころではない。

「……ンゥ」

鼻に掛かった声が自ら漏れたことに、フリットは奥歯を噛みしめて同じ失態はしまいと両目もぎゅっと閉じる。
為すがままだったフリットが身に力を入れ始めたのを感じ取り、ウルフは身を引く。首を傾げたフリットが此方の手に自らの頬を押しつけるような形になるが、本当に疑問から傾げたものだろう。

耐えるための動作に入っていたフリットは中断に質問の口を開こうとしたが、横の噴水から水滴が撥ねる複数の水音と昼間の空気に遅れて意識が醒める。途端に何か言い訳をしなければと、背中を焦りが押す。しかし、ウルフがある一方に視線を投げた。険しい眼を向けられた大学生らしき男が二人、足早に公園を横切ってく。
遠ざかる男子学生達とウルフを交互に見比べるように首を動かしたフリットはそういうことかと納得するが、そこまでする必要はないと身の置き場が無くなる。

何だかんだでフリットの今日の装いをしっかり見るタイミングが無かったウルフは今更ながらに彼女を傍らから見下ろす。
オフショルのチュニックは素肌を剥き出しにしており、無防備に肩を晒している。中にワンピースを着用しているため、胸元は見えないのでいやらしさは無いが、隙のようなものを感じる。その隙が、自分が隣にいるからであれば良いがと思い飲み込み、膝に目を落とす。ある意味一番無防備だった。座ったことで布地が引き上げられて立っている時よりも肌が見えている。布地自体もそれほど厚さが無い素材らしく、身動き一つで揺れていた。

編み上げのブーツを見て、こいつは一人で脱げないだろうと思う。その場合はフリットは手伝って欲しいと言ってくるだろうか。何でもこなしてしまうのがフリットであるが、日常的なことだと微妙に手が届ききらなかったりもするのだ。完璧主義は完璧であることを指さない。それを求めて向かうことだ。
だから、見過ごしてしまいそうな儚さが見慣れていない装いから滲みやすくなっている。誰もが振り返る美人とは言い難いが、顔立ちは整っているから閑散とした場所では目に止まりやすい。

いつもは軍服であるし、頭の回転が速いのは考え事をしている時間が多いからで、表情も思考中心である。目上には敬語だが、上からの物言いに聞こえるときもある。それらを鑑みれば、固いところがあって男から嫌煙されやすい女だとつくづく思う。
客観的に見た意見であり、ウルフ本人からすればそんなことはない。所在なく、此方を窺おうとする視線は寸でのところで交わらず、逸らされる。息抜きの今ぐらいは感情のままに行動したところで悪くないのに、そこに思考を挟むのがフリットだと、今の行動を眺めていて感じるし、街に出てきてからの行動を振り返ってもそうだ。割り切らず、意識しなくとも地続きになってしまうのだろう。
このまま構い続けても良かろうが、こうやって街中に出てくるのはフリットは久し振りだ。気疲れを増やすのはウルフとしても避けたい。つと、視線を上げた先にある物が目に入り、ベンチから腰を上げる。

立ち上がる気配に大きく見上げれば、それを下げるように頭をぽんぽんと二度軽くあやすように叩かれる。此処でも子供扱いかとフリットは不満を抱く。すぐに手が遠ざかったので払いのける暇さえ与えなかったのは待っていろという意味合いだろう。
何処へ行こうとしているのかは分からないが、戻ってくる確信はある。行き場のない不満は残っているものの、フリットはウルフの姿を視線で追いかける。背中が見えなくなったところで止めようと思っていたが、彼の目的地は遠くなかった。

派手な色のワゴンタイプの車が車道脇に止められていた。移動販売車のようである。先程の男子学生のことからも、近くに大学があるらしく、午前の講義のみで帰路を辿る学生が何人かその車の前で品定めをしている。客層は全て女性であるのに、何の抵抗もなくウルフはその中に混じっていた。
周りの女性が友人に話し掛けたり、ウルフに思い切って直接話し掛けたりなどしている。フリットの頭の中にちやほやされているという言葉も意見も生まれない。応答するウルフの姿に人当たりが良いなと感じ得ただけで、軍に入る前からああだったのだろうと思い浮かべるのみだ。

レーサーの頃の話は以前所属先が一緒だったフォックスを交えて幾つか聞いているし、ウルフには内密でという前置きを含んでフォックスのみから聞き及んだ話も少なくない。
それらの話を照合する機会が一度もなかったわけでもなく。
その度にフリットはウルフがどうであるかに重点を置いてしまうため、自分の感情に蓋をしてしまう以前に行き届きもしない。

勿体ない生き方だと誰に言われたのだったかと思い出し、フリットは視線を足下に落とした。靴は最後の最後まで迷ってこれにしてきたが、走ることを強要されるなら正解であったろう。踵が上がるヒールはあるが、底部分の着地面は広い方に分類されるから余程のことをしなければ足を挫く心配はない。五年前のパンプスも未だに保管してあり、片手で数えられる程度にしか使用していないので状態は良かった。けれど、気付かれたらまだ持っていたのかと呆れられるだろうかとか、今日の服に合っているのだろうかなどと考えすぎてしまった結果だ。ブーツを履くときはエミリーに手伝ってもらったが、脱ぐときは自分でやるんだろうなとやんわり思考を繋げていれば、目の前に影が立つ。
人影に驚きはしなかったが、目の前に差し出されたものに瞬く。

「あの……」

視線を持ち上げて予想通り戻ってきたウルフの顔を捉えたフリットは差し出されたものをどうしろと眼差しで問う。

「あの店に寄るのは無理そうだし、さっきは慌ただしくて疲れただろ」

暫くはここで時間を潰すことにもなる。だから休憩がてらだと言われ、フリットは悩んだ末に小さく礼を言ってウルフから受け取る。しかし、疑問が一つ残る。

「ウルフさんの分は……?」
「あんまり格好が付かんから、いらん」

格好の問題なのだろうかとフリットは首を捻る。手の中にあるソフトクリームとウルフを結びつけるキーワードは白だが、存在のイメージ的に違うと言われればそうかもしれないとも思う。しかし、それは別にアイスや甘い食べ物が苦手という意思表示とはかけ離れている。食の進みが遅い時を見掛けたこともなく、大概のものは平気で口にしている記憶しかない。

「早く食わんと溶けるぞ」

隣に腰を下ろしたウルフのことを気にしつつも、クリーム部分に刺さっているプラスチック製のスプーンを引き抜く。コーンにのっている白いクリームの先端をスプーンで掬い取り、フリットは口に含んだ。
舌の上でふんわりと溶け、ミルクの甘みが味覚を通して広がる。

一息吐いたフリットの様子にウルフは表情を僅かに緩める。レーサーだという自覚は当にない。それでも、レーサーだった過去はある。まだ現役で続けられただろうし、記録も伸ばせた絶頂期に辞めた。
それを思い返せば、ああいう形でフリットに想いを告げるようなことは避けるべきだったかもしれないと感傷に珍しく思考が向く。

身分証をフリットが出してしまったしなと、こちらについてはあまり深く考えずに軽い気持ちで胸の内で言葉にする。あいつらが上手く場を収めてくれていれば問題は無いだろう。

「ウルフさん」
「何だ?」

思考に一区切りが付いた瞬間、呼びかけられてウルフは横に振り向く。すれば、目の前にスプーンが差し向けられていた。

「食べられないわけじゃないですよね?」

確認のためにフリットは小首を傾げてウルフに尋ねる。

「まぁ、食えないわけじゃないが」
「これだったら、食べてくれますか」

自分で食べるのでは格好が付かないならば、他人の手からなら大丈夫だろうとフリットはクリームを掬ったスプーンをウルフの口元に近づける。
フリットの表情を見るからに至極真面目に言っているようだった。膝枕を貸した時のような意識は感じない。

他の女に良い顔見せたら嫉妬ぐらいするかと期待もしてみたが、やはり気にも止めていない。何らかの意識が含まれての行動だったならと。

「どうかしました?」

身動き一つしないウルフにフリットは腕を引っ込めそうになるが、いらないと言われたわけではないのでそのままにして疑問する。

「お前は俺のこと好きか?」

突然だった。けれど、フリットは唐突だと受け取ることはしなかった。
いつもなら違うけれどと自覚した上で、やはり気分が高揚しているのかもしれないと思う。もしかしたら、今日だけかもしれない。それでも、これは本心だ。いつの間にか胸に抱くようになっていたもの。
眼差しを変えたフリットにウルフは目を瞠る。遠くを見るように、だが、確かに目の前の人を見ている。柔らかくあるが、曖昧なものでなく、直向(ひたむ)きに。

「はい」

言葉に流れ、目元を緩めたフリットを抱きしめたい衝動に駆られる。けれど、間にあるものに阻まれている。
だから、フリットの手首を掴み、溶け出しているクリームを己の口に含む。プラスチックに歯を立てる音がした。口を離し、少し引いてから、溶けたクリームがスプーンの持ち手を伝ってフリットの指に絡んでいるのに気付いたウルフは掴んでいる手を僅かに引き寄せた。
内の体温が濡れて触れる感触にフリットは小さく震えた。途端に恥ずかしさが胸を占め、舐められている指先から視線を逸らす。

嫌がる素振りはないが、ぎゅっと目を閉じるフリットにこういうのは相変わらずだなと感じる。今までならば、あの訊き方をすれば先程のような反応は期待できなかったはずだ。

慣れたとか、そういうものでもない。これは、フリットが何度も自問自答してきた事柄であった。近くに居たいと、側に居たいと経て、自分でもそれがいいと、願いと行動が沿うようになったからだった。
自己開示をせずに、ずっと一緒に居たいというのは勝手に過ぎるだろう。けれど、開くことが甘えになるのではないかと、そんな風にも考えていた。
今でもその考えが変わったわけではないが、受け入れるだけでなく、受け取って欲しいと思うようになってしまった。横柄だろう。
それでも、時間はあまりないのだ。きっと。

母子の姿に、自分の母のことを思い出したのは本当のことだ。けれど、もう一つ。自分を重ねた。あの横に父親も居る親子の姿。
ありもしない未来を重ねたのだ。
分かっていることであるし、自分もそのつもりはない。
この関係がいつか途切れることを覚悟はしているが、いざとなったら自分はどうするのか想像が付かなかった。

せめて、今日を悔いることのないようにと、想いを伝えたつもりだ。それが出来ただけで十分だと、バッグの中にデバイスと一緒に入れてあるチケットについて話すことはあるまいと決心しようとした直後。
アイスを食べてくれたは良いが、その後に指を舐められるとは思わず、フリットはしどろもどろになる感情の行き場に倦(あぐ)ねいて視界を閉じる。
視界を遮ったことで余計に意識が指先に集中してしまう。それを避けるようにフリットが外の音に耳を傾ければ。
公園脇を通る、ソフトクリームを手にした女子学生らの声が届く。

「ねぇ、あれさっきの」
「本当だ。やっぱ彼女持ちかー」
「うちの大学にあんな子いたっけ?」
「それよか、昼間からあんなんって凄いよね」
「彼女の指、舐めてる?」
「あんた彼氏いたよね?ああいうのどうよ」
「無理無理。さまにならないって」

聞こえてくる内容に兄妹に見られていないという安堵があるが、他者から客観的な言葉が届くのは居たたまれない。よりによって、何故この時ばかりは噴水が作動していないのか。彼女達三人の足音が遠のいたところで噴水が水を零し始めた。
新しく通ってくる学生達の声は水音で掻き消される。しかし、もう少し早く作動してくれていたらと、どうしようもないものに恨めしさを憶える。

「ウルフさん、あの、もう」

指に零れてきたクリームは既に全て舐め取られている。突然の事に身を固めていたが、やっと我を取り戻して、もうやめて欲しいと眉を下げて請う。
手が離されないままに狼の眇が此方に向けられ、胸の内が撥ねた。息を止めに来るような視線が射貫く。
人差し指の爪先を最後に舌で絡め取り、ウルフはフリットを解放した。

身を縮めたフリットは、ほんの僅かにウルフと距離を取る。数センチだけベンチの左隅に近づいた。静かにソフトクリームを食べ始めるフリットの様子に気付いているよなと自ら示した合図を振り返りつつ。

「餌付けしてくれねぇの?」
「――躾がなってない人にはあげません」

この手の冗談にのってくるのは珍しい。だからこそ、照れ隠しや虚栄の表れだ。












二人が座るベンチの背を噴水を挟んだ向こうで、息を殺して様子を窺っている屈んだ影がまず三つ。それよりも後方にある葉の茂みには五つ。
気配が多くては気付かれるだろうとした上での配置だ。

噴水の隙間から時折二人の姿を捉えられる位置にはラーガン、ブライアンとカーターという年長者で固められている。気配の強弱をある程度自在に調整出来ることと、後は若者に刺激的なものは見せられないという配慮からだった。フリットが一番年若いのはこの場合は除外しておく。相手がウルフなのだから、何処までやらかすか分かったものではないからだ。常識外れなことをしない男であるとラーガンは理解しているが、フリットが気を許す分には踏み込むし、遠慮を考えない。
現に、自分の横にいる二人は視界に映ったものに対して思考で戦い抜いた末に俯いてしまっている。

付き合い始めた学生カップルがやるような普通のアイスの食べ合いっこならば、まだ耐えられただろう。……いや、それはそれで駄目かとラーガンは思い直し、まぁなんだと頭を掻く。こういうのちょっと愉しいよなと、悪餓鬼のような自分の発想に苦笑する。 間に介入せず、見守るポジションも結構気に入っているのだ。
しかし、ブライアンとカーターの心中も察する。あれ以来、ウルフがフリットと顔を合わす回数が多くなっている。同じ基地内と言っても隊ごとに使用格納庫は分けられているし、同じ場所で勤務することもない。それでも、何か一区切り付いたことで僅かに空いた時間を使ってウルフはフリットの様子を見に来て構う。
構うと言っても、スキンシップは軽めのもので留まらせ、先程目にしてしまったようなことまではしていない。ただ、側に居ようとする。
それだけというのもあるが、ウルフも忙しい時間の中を縫っているのを同職であるフリットは良く分かっている。だからこそ、表情を歪めつつも邪険にはしない。
整備班の人間から聞き及んだ話ではそうだ。
時折、ウルフがブライアン達を睨むこともあるようだが、それを良しとしないフリットは何らかの対応はする。
けれど、周囲に飛び火しない分には、ウルフに身を任せる。今がそれだ。隊長としての面ばかり目にしている彼らにとっては色々と思うところはあるだろう。

彼らの精神的打撃をこれ以上増やすこともあるまいと、ラーガンが二人の肩を順に叩いて立ち上がる。
後方の茂みに隠れている五人を覗き込んで確認する。

「そっちはどうだ?」

噴水は直径十五メートルほどあり、フリットとウルフの会話は聞き取れていない。そのため、彼らにハロを預けていた。AGEデバイスからハロを通して音声を聞き出す仕組みだ。

「それが、その……」
「あのですね」

彼らは一様に顔を見合わせてから、マラットが代表して口を開いた。

「隊長がご家族について話し出してしまって。聞いてはいけないことではないかと思って」

そこからずっとハロを操作せずにいた為、殆ど何も聞いていないのだと言う。
目を丸くしたラーガンであったが、彼らの誠意も尤もなものだ。帰り際か何処かで酒の一杯ぐらい奢ってやるかと予定を立てていた時だ。目の前のマラットが蒼白な顔をしてある一点を注視していた。そちらを目で追えば、噴水の円を沿って歩いてきた男が立ち止まり、ラーガンに吐息を漏らした。

「気付いてましたか」
「何時から後ろに居たかは知らんがな。さっきの借りがあるから、とやかく言うつもりはねぇよ」

そっちも気付かれていたかと、ラーガンはお手上げとばかりに肩をすくめた。
報道陣が二人を追いかけようとしたのを食い止めるために、ラーガンらは喧嘩まがいの演技をしてカメラマンにぶつかり、映像記録の抹消。次には突然喧嘩を止めて機器を故障させてしまったことに対し、しつこく謝罪を繰り返して足止めをしていた。

「フリットなりに楽しんでいる様子が確認出来たので、俺達はもう退散しますよ」
「なら、良いが」

と言いつつも、フリットの部下達には顰めた視線を流す。敵意は無いが、自分のものに唾を付けられた感覚はそう簡単に拭いきれるものではない。
ひと睨みを受けて身を縮ませる彼らを気の毒に思いながら、ラーガンは背を向ける。

「責任を取れとまでは言いません。ただ、一つだけ」

ウルフは歩み始めるラーガンの背中に視線を移した。

「困らせるようなことはしないでください」

その言葉を。

「憶えておく」

続け、繋げた。












靴が砂を噛む音に振り返り、ウルフはフリットと視線を交わらせる。

「どうかしたんですか?」

ソフトクリームのコーンを包んでいた紙を公園内の屑籠に捨てに行き、手を洗ってきたフリットはベンチにウルフの姿がなかったので、探しに来ていた。
待っていても良かったが、どうしてそうしたかは自分でも説明がし難く。何となくとしか言いようのない行動だった。
だから、何か問われる前に此方から尋ねた。

「説教」
「?」

返答が理解出来ずに首を傾げるフリットの方にウルフは歩み寄る。

「誰か居たんですか?」

続けて訊くも、ウルフはそれには答えない。彼の後ろに人影など見当たらず、フリットは余計に首を傾げる。
横に来たウルフに手を取られ、フリットは後ろを気にしつつも、そのまま彼の速度に沿って歩き出す。けれど、繋いだ手を見下ろして眉を困ったように下げる。

「そんなに危なっかしい、ですか?」
「ん?ああ、さっき言ったことか」

思い出したウルフの発言と立ち止まりにフリットは顔を上げる。
仄かに見下ろしてくるウルフの視線を何時になく柔らかく感じて、鼓動が静かに、強く。フリットの内で一度鳴った。

「可愛いから手を繋ぎたいってのが本音だ」

危なっかしいというのは嘘ではなかったが、あの場での建前でもあった。だから、これが真意だと濁りなく言う。
暫しの沈黙の後に意味を飲み込み、フリットの内側で収束していた鼓動が外側へ行こうとする。

困った表情を更に困らせているフリットを間近にして説教に反していると思ったが、彼が意図した言葉の先は別の意味だ。これは換算されない。
俯いてしまったフリットの頤を繋いでいない手で掬い取る。抵抗しない獲物に、獣への警戒心を覚え込ませるのはもう遅い。手放すつもりもない。

人影が二人だけになった公園で、噴水の水だけが空気を濡らしていた。溶けたのは空気だけでなく、フリットの決心もだった。けれど、溶けた決心は別の形で決意となる。身の内がまだ火照っていたが、意識して呼吸して無理に落ち着けた。

「また今度、休暇を申請してもらいたい日があるんです」

視線を少し落とし、瞬いて言葉を選びつつ口にするフリットに日付を訊いてウルフはその日を記憶する。

「何かあるのか?」
「講演会、なんですけど。クラストルイン博士のモビルスーツ技術構造解析セミナーのチケットが取れて、同伴者一人までなら一緒に参加出来るんです。それで、なかなか取れないやつで」

普通に昨日考えていた時点ではウルフは興味が無いかもしれないと何度も思ったが、今のフリットは伝えることだけに精一杯で、思いついていたことでさえ意識から離れていた。

フリットが口にしている言葉の意味は分かるが、その講演会などの類と無縁な生活をしてきたウルフにとってはセミナーがどういうものであるかについて想像の範囲を出ない。

「いいぜ。その日空けとけば良いんだな」
「……!」

驚きながらも嬉しさを滲ませ、それから安堵に胸を撫で下ろしたフリットを傍らに再びウルフは手を引いて歩き出す。

「あの、でも、本当に良いんですか?」
「今更訊かんでもいいだろ」
「退屈かもしれないですし」

やっと思考が他のことにも回り始め、フリットは不安を覗かせた。そういう反応が来るような気がしていたウルフは、思い返す。
頻繁ではないが、偉い先生だか博士だかの講演を聞きにフリットが出掛けることがあるのを知らないわけではない。講演から戻って来たフリットから新しい技術の構築がなどと語られることもある。わけが分からないことは無いが、天才とは違って流石に全ては理解出来ない。

しかし、そういう時に好んでいることがある。フリットの匂いだ。何かを得られて一種の興奮状態になっている時は雰囲気だけでも分かるが、鼻腔をくすぐる匂いも混じる。
モビルスーツに関する講演ならば、自分の興味から外れているわけでもない。それに加えて匂いの変化を横で感じ取れるなら退屈どころではないだろう。

「夜勤明けでもない限りは、いびきかいて寝たりしないから安心しろ」
「それが心配なんじゃなくて」

不安を消せないフリットに対してウルフは繋いでいた手指の絡み方を少し変える。変化に気付いて、フリットはそれ以上は口を噤んだ。
都合が悪くなる可能性は互いに大いに有り、絶対の盟約ではない。けれど、同じ未来を共有出来ないからこそ、少し先に待ついつかを確かめ合う。そんな繋ぎ合いの決してぬるくない暖かさに何も言えなくなって。

どこまで伝わっているのか、どこから伝わっていないのか。理解せずとも大丈夫だと、焦らせるようなことをしない。先ばかり見ている自分はそれで心地よさは得られないが、言葉無くとも安堵を感じられていた。最低限の地盤を崩さないための時間がそこに含まれているからだ。

「一つ訊くが、それはデートの誘いで良いんだな?」
「え?」

瞬き、フリットは考える。今日は物資調達が目的であり、約束したというよりもその場で都合を合わせた色が強い。だから、デートという認識は薄い。
講演会のチケットだが、これがもし映画やテーマパークのチケットだったならば、一般的にはデートの誘いになることぐらいはフリットとて理解している。ただ、自分に当て嵌めにくいだけで。

「えっと……どうなんでしょう?」

誤魔化すように言って、フリットは首を傾げるついでに顔を背ける。けれど、繋がれている手にそっと力を入れた。
その反応にウルフも同じように手に意識を向ければ、互いの繋がりが深くなっていく。
疑問への追求はなく、呼吸の律動が揺れ始める。戸惑いはあれど、手放せないままに公園から足を遠ざけ、先へ進んだ。





























◆後書き◆

互いに意思を言葉で交わしていたことが多かった頃ですが、言葉以外で伝えることを憶え初めてしまった時期としてこんなお話。書き始めた段階ではこうなる予定ではなかったのですが……はて。
全部言葉にする必要はないと思いますが、寄り添いの度合いが濃くなることでズレていく部分もあるのではないかな、と。

このあたりの時間軸設定ですが。
数週間前に配給されたコンドームが不良品だったよ。外に行けばマシなの売ってる。買い出しということで物資調達として外出許可取る。
イマココ。
買い出しへ。厚めのほうが頑丈そうだの、ゴム感が強いのはちょっとと相談しつつ取りあえず購入。ヤるよー(指舐めたのが合図でした)。次のデート(講演会)の場所、あの公園の近くにある大学だったよ。わー。

コンドームが不良品だった時に妊ってしまっただろうなぁということで、本文で母性について少し意識しつつです。

Knoten=結び目

更新日:2013/06/30








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