◆Ewig◆









食堂の空気が張り詰めたが、ウルフは一度視線をそちらに向けて一瞥しただけで、次には食事の動作を再開した。
暫くしてから、聞き覚えている靴音の律動が近づいて来て、自分の横近くで立ち止まる。声を掛けられる前に顎を上げれば、やはり総司令部の司令官がそこに立っていた。

「相席、良いですか?」
「どうぞ」

上官相手への態度を取るウルフにフリットは頷き、彼の横に座るのは止める。向かい側の席に座し、ウルフと正面から向き合う。

「何かご用でありますか?」
「今はそれじゃなくても構いませんよ」
「食事中でも勤務時間には変わらんと思うがな」

会話の内容が届く範囲に他者がいる場合は、上官と下士官という立場はつけている。お互いにそうしようと話したわけではなく、気付いたらそうなっていた。ただ、フリットとしては違和感を得ているようで、仕事の話をしない時は向こうから「いつも」を提示してくる。だから、何か命令を下すためにフリットは此処に来たのではないということも分かる。
同じメニューが載ったトレーに視線を落として、ウルフは問う。

「ここで食事するなんて珍しいな」
「厨房はここにしかないんですから、手間は省けるでしょ」

司令官の部屋に食事を届ける給仕係の仕事の手間のことだ。だが、それは上下関係をはっきりさせる為に必要なことであり、今のような空気を作らない為もある。
横に長いテーブルの席にはフリットが来る前にウルフの他に三人が腰掛けていたが、今はそのうちの一人だけが残っている状態だ。先の二名は半分以上載っていた食事を掻き込んで早々に席を外している。残りの一人も今、最後の一口を飲むように喉に通した。

向こうで椅子を引いて席を立つ音を耳に入れつつ、何食わぬ顔でサラダを口に運んでいるフリットを見遣る。
周囲を等閑(とうかん)しているわけではなく、無意味に干渉することはないと判断を付けているだけだろう。食事の手が遅いのは、食堂に来た自分の行動を顧みている証拠だ。
ある程度はフリットも予想がついていたことのはずであり、同席してきたのも偶然居合わせたからではなく、意識あってのことだろうとウルフは推し量る。

会話が一端途切れたまま、フリットが言葉を発しようとする素振りはない。此方から嗾(けしか)けるべきかと思案し、その先で会いたかっただけと相手の口から言わせるのも悪くないとも思う。まあ、言わないだろうがと即座に否定もしてしまうが。
会いたいより、一緒に居たいが近いと思うからだ。会いたいなら顔を合わせた瞬間に安堵の緩みがあるが、フリットの場合はそうでない。側に居る時間を確かめてから安堵に入る。そういう意味では、フリットはまだ気を緩めていない。

ウルフは相手の陣地に手を伸ばし、獲物を手に摘むと自分の口に放り込んだ。あまりの早業にフリットは呆けていたが、

「――ウルフさん」

次の瞬間には行儀の悪さを咎めるように彼の名を呼んだ。そう怒るなとウルフは自分のトレーに載っている鶏のナゲットを取り、フリットのトレーに載せる。

「手は拭いたぞ」

怪訝な顔をするフリットに外したグローブの横にあるナフキンを指さして言った。しかし、そういうことではないとフリットが首を横に振る。

「どうして同じものを交換する必要があるんですか」

此方の食事を摘み食いされるのは以前から何度もあったことだ。その度に自分のものを盗られたと憤慨したりもしたが、今となっては呆れのほうが強い。
ウルフは昔と同じように此方が不機嫌になっていると判断したようで、自分のものを一つ分けるという発想に至ったのは理解出来る。だが、わざわざ同じものを渡してくる意図が解らない。

「隣の芝生は青いって言うだろ」
「古い表現ですね」

他人のものの方が良く見えることを指すが、地球育ちなら兎も角、コロニー育ちである自分達には縁の薄い表現の言葉だ。
古いと口にした直後、ウルフが表情を詰めたのを見て、別に年寄り臭いと含めたつもりではなかったのだがとフリットは首を少し傾ける。

視線を落とし、ウルフがくれたナゲットを暫し見る。フリットもウルフと同じように外したグローブをトレーの横に置き、ナフキンで手も拭いてある。けれど、手掴みすることはなく、フォークを差し込めば弾力の手応えが伝わってきた。
ナゲットを口に運び、全体の半分を噛み切る。フォークで刺した瞬間の弾力と、口にした時の弾力加減の想像に食い違いはない。
鶏肉に含ませたペッパーとソースが噛む度に濃くなり、味覚を覆う。歯で噛み切り裂く感触は魚と違い、押し返してくるような食感が含まれている。
もう半分を口に含む。先程と同じように咀嚼(そしゃく)して飲み込んだ。

次に手を伸ばそうとしたが、何かを問い掛けたがっている視線に動きを止めてフリットは顔を上げる。ウルフの表情を見て、フリットは手を引く。
引いた手は顎下付近で止まり、その手に握られているホークの先端が口元に当たり、フリットはそれを咥えた。
何も刺さっていないそれは食器特有の冷えた味がする。が、つい先程口にしたナゲットの残り香のような味も感じる。だからこそ、顔と肩を僅かに横に投げて、ウルフの視線から逃れるように避けた。

何も言わずにウルフは自分の食事を片付け始め、フリットはフォークを口に咥えたままという自分の不作法に気付いて正す。それから、恐る恐るという様子で視線を徐々に戻していった。
自分も食事の手を再開させるが、妙に意識してしまっている自覚がフリットにはある。同じものを交換しただけだ。けれど、無性に落ち着かなくなっている。口にせず、ウルフに返せば良かったと独りごちる。

「………」

後悔ではない。ただ、どうすれば良いのか分からなくなっている。
何となく。何となくだけれどと、フリットは胸の内で繰り返す。ずっと前にも焦燥に駆られる気持ちを抱いたことがあった。ウルフに好きだと言われた時と似ていると感じる。今でもあの頃のことは良く覚えていた。薄れる記憶もある中で、これだけは根強く刻みつけられ続けている。

この人のせいだと思う一方で、才走ったのは自分でもあることをフリットは重々承知した上でウルフと目を合わせた。食した感想を口にするのは癪なので、ふいっと視線を外して返答としておく。
可愛げのない反応だとウルフは胸の内で言葉にするが、こういう所があるから構って別の反応をさせたくなる。故の、内側の衝動には気付いていたが、最優先にするべきはそちらではなく、彼女が司令官らしからぬ行動をしている原因だと、食器を置いて何も持っていない両手を重ねてその上に顎をのせた。

視線だけ寄越してくるウルフに何か喋ってくれないだろうかと、フリットは食事中を見られているという圧に抗う思考を脳裏に張り付かせる。じっと見られて食が進むわけもなく、手を休めてフリットは咎めるようにウルフを見遣った。

「――あの、食べにくいんですけど」
「大きくなるように見守ってるだけだろ」

絶句した。いくつだと思っているのだと口にしようとしたが、そこではたとフリットはデジャヴを感じてウルフの視線を確かめた。彼の視線はこちらの顔ではなく、少し下にある。
嫌だというわけではないが、ウルフの視線を避けるためにフリットは胸を腕で隠すように身を萎縮させた。

「大きくなるわけないじゃないですか」

産後に母体として子供を育てるための変化はあったが、アセムとユノアを出産したのは遠い昔と表してもいい頃合いだ。母乳を必要とすることがなくなれば、下着のサイズも少し下げることになる。
母親になる女性は元のサイズに戻る人もいれば、そのままを維持してしまう人もおり、個人差があるわけだが。フリットは先の二説の中間で、ピーク時よりは小ぶりになったけれども、元のサイズにまで戻ることはなかった。

成長期と産後以外で胸が育つのは生物学的に明確に証明出来た事例はない。揉んで貰えば大きくなるというのも迷信にすぎない。
と、そう意識で断言したが、フリットは先程の既視感の先を追いかける。連邦軍第八宇宙艦隊に所属していた頃のことだ。今と同じような食事中にウルフが此方の胸を見た。
思い出すことが億劫になるが、思考はそこで中断はされず。

「……迷信ってわけでも、ないのか?」

ぽそりとそう呟き落とした。はっきり聞き取れなかったであろうウルフが「何だ?」と口にしながら首を傾げるのをフリットは視界に捉える。
期待しているなら揉ませてあげても。いや、何故に上から目線なんだ自分は。そもそも、ウルフは大きい方が……良いに決まっているか。なら、後でしつこく揉んで、って、何を考えているんだ。これでは此方が期待しているみたいではないか。

難しい顔を困ったように歪めているフリットの思考は読み取れないが、絡まったことを賢い頭でフル回転させていることは見ていれば分かる。昔からそういうところがズレてるよなと、腑に落ちるような安堵も何処かで得る。
しかし、そのせいで解決策を捻り出されてしまうので、相談なども滅多に口にしなかったりする。
何か決めかねている様子だが、方向性が見えてきたのか、姿勢を正してから、もそもそとフリットは食事を再開させた。

一息つくタイミングを見計らい、ウルフが「フリット」と名を呼べば、彼女はぴくりと指を震わせた。まだ決着が着いていないのだなと片隅で留めておき、そろそろ腹を割って話せと顎をしゃくった。
促したのは、つい先程までフリットが考え込んでいた内容ではない。彼女が此処に来た行動についての理由だ。
それが分かったからこそ、フリットは表情をにわかに歪める。言いたくないというよりも、言ったところで変わりはしないと、先に対しての諦念が感じられる顔だった。

「たいしたことでは、ないですよ」

そう思っているなら全て吐露してしまえと口にしたいのを堪え、ウルフは頭を掻いたその手を首後ろまで下ろす。
何時だって人は感情で動くものだ。だが、感情が全てではなく、支配できるはずもない。立場が感情を押し殺すこともあることを痛感する。

ウルフの仕草に、心苦しい思いが胸を占めた。口にすれば、少なくとも肩の荷が軽くなるだろう。けれど、弱みを露見させるのは己の信条に反するのだ。寄り添いたいし、寄りかかりたい気持ちが無いわけではないけれど。
理想が高すぎるフリットはウルフの真横に並べることを望んでいた。そうするためには本心ばかりを口にすることは出来なくて。ただ、大丈夫だと見栄だけを張った。
しかし、大丈夫だと思ったのは嘘ではない。ウルフの姿を見て、側に来て、声を聞いて、鬱屈していたものが晴れたのは本当だった。だからこそ、大したことではないのだと言えた。

何も返してこないウルフにある程度は伝わっているのだろうと、時刻を目視で確認したフリットはトレーを手にして席を立つ。

「いい。俺が持ってく。時間ないんだろ?」

フリットが断りを入れるより先に、ウルフは彼女が手にしているトレーを下から持ち上げて軽い仕草で奪い取る。此方が意地を張って引っ張り合いにならないように仕掛けたやり方にフリットは降参だというように苦笑した。

「分かりました。お願いします」

グローブを手にして、席から離れようとしたフリットだが。
席を立ったウルフが待てというように行き先を立ち塞ぐ。

「あの、」

時間がないから譲ってくれたのではないかと疑問を浮かべる。それでも、少しだけなら余裕もあるため、どういうことかと相手を見上げた。

「残りは俺に寄越せ」

そのためにフリットの手間を省いたのだからと、彼女の肩前に流れている髪に素手で触れる。触れられたそこに視線を落としたフリットに顔を近づけ、すんすんと鼻梁を揺らした。
匂いを嗅ぐことで感情を共有出来る事例を知った直後の一時期はウルフのこの行動に身構えていたりもしたが、彼にとってはスキンシップの一つであり、目的は定かではなく、自分がそうしたいからそうするという実に単純明快な原理だった。
そうと分かれば身構えているほうが馬鹿馬鹿しいと、フリットは仕方のないことだと以前と同じようにウルフの勝手にさせている。

拒否する必要もないと、ぼんやりと髪の毛先を撫でられていることにも身を委ねていれば、すいっとウルフが身を引いた。
もういいのかと、名残惜しい残念さに気付いていたが、気付いていないふりをしてフリットはようやっと食堂の出入り口から通路に出た。

その背中を見送ってから、ウルフはトレーを返却口まで持っていこうと席に戻ろうとした。が、振り返ったところで食堂中の視線が自分に向けられていた。正確には先程までいたフリットを含めてだろう。
気にせず二枚重ねになったトレーを手にしたウルフは圧力のある視線に囲まれて身動きを止めることになる。
こういう時、質問攻めにされるのはフリットではなく自分の方が多い気がしてならないと、ウルフは取り巻きにきた女性士官達の声を聞く。

「少佐の前だと、アスノ司令って可愛いですよねぇ」
「表情と仕草が柔らかくなりません?」

口々に出るのは意外と含めたものばかりだが、妙に納得した口調で語られるのは彼女達がビッグリング基地勤務になってから日は浅くないからだ。ある程度の事情は察しているし、昔の噂も聞き及んでいることは言外から伺える。
それでも、常日頃見掛ける司令官の姿とは幾分か違うが故の興味だ。

「髪を触らせるってことは、それだけ許してるってことですし」

聞き流していたが、その言葉にウルフは声を発した一人に顔を向けた。向けられた彼女はそのくらいのことはウルフほどの経験があれば知っていて当然だろうという風情を保ったまま続ける。

「身体以上に触れられるの嫌だったりするじゃないですか」
「いや、アイツの頭に昔から触ってたからな」

頭を撫でられるのは未だに嫌がられることもあるが、彼女が言う理由とは違うだろう。フリットとしては。

「昔から、ですか?」
「フリットがこれくらいの頃だな」

と、言いながら自分の胸部より下のあたりに水平にした手を持っていき、記憶にある当時のフリットの身長を表した。
噂を耳にしていても、当て嵌めてしまうのは現時点での二人だ。よく考えてみれば、年の差がある。フリットが子供と言われる歳の頃、ウルフは成人している。
そのことに思い至った周囲は含めた目でウルフを見遣った。

「………犯罪」

誰かが、ぼそっと呟いた。敢えて言わなかったのにという空気が広がったが、ウルフが意に介した様子はない。
ただ、肩をすくめてそろそろ解放してくれないかと態度を見せたところで、食堂の出入り口が開く。その音に顔を向ければ、急いだ様子のフレデリックが食堂を右から左へ奥へと視線を奔(はし)らせている。
目が合い、フレデリックは躊躇無くウルフに歩み寄る。

「エニアクル少佐。すみませんが、アスノ司令がどちらにいらっしゃるか存じませんか?」
「仕事に戻ったはずだがな。あと、今なら連絡取れる頃だろ」

先程から端末が使い物にならなかったフレデリックは僅かに辟易しつつも、仕舞い込んでいた端末を手にして操作する。繋がったことに驚愕の念が胸を占めたが、腑に落ちる面もあった。
通話を終えてウルフへと一歩前に出たフレデリックの行動に席を外した方が良いだろうと近くに居た者達は彼らから距離を置く。

「何か、聞いていますか?」

フリットからと正しく理解したウルフが「何も」と返せば、フレデリックは無表情のまま「そうですか」と受け止める。しかし、思案の色を幾ばくか覗かせて口を開き掛け、閉じ。それでも間を置いて再び口を開いた。

「極秘裏なものですが、首相が本日此方にお目見えになります」

声を潜めてウルフのみに聞こえるように言えば、フレデリックの予想に反してウルフは特に驚きもしなかった。相手から読み取れるのは納得の気配だ。












地球連邦の首相であるフロイ・オルフェノアのビッグリング基地来訪は急なものではなく、用意周到なスケジュール管理の下で派生したに過ぎない。
だが、フリットとしては難色を示す相手であった。今までにも何度も腹の探り合いというのは幾人とも交わしているが、あの首相は目についたものを全て使おうとする節がある。
人の扱い方も使い方も良く知っているからこその地位なのも理解しているし、得心がいっているが、信用には値しない。
そういう男だと認識しているフリットは成人年齢の引き下げについてと種々の会談を終えて、客人の見送りのため、帰りの案内役をして先導していた。

上役用のエレベーターに乗り込み、補佐のフレデリックに続き、オルフェノアが警護員を二人引き連れて乗り込んだのを見届けてからフリットは扉を閉じる操作をする。
筒状のシャフトを下へと降下する中、己の左後ろにいた男が一歩前に出る気配があり、フリットは視線だけを横に流した。
自分が良く知っているものよりも傷がなく皺の多い節張った男の手が、顔横の此方の髪に触れてきた。既に反射の行動であった。フリットはその手を強く払う。
その行動に警護員が肩を怒らせたが、オルフェノアは気にするなと手で制した。

「埃が付いていると思ったが、気のせいだったようだ」
「……いえ。私も、すみません」

流石に強く叩きすぎたと、フリットは本心から謝罪する。だが、オルフェノアの行動と言葉には困惑が残る。
何事の前触れだとフリットは眉を顰めて、相手へ神経を尖らせた。

「あの男とは、よろしくやっているか」

わざわざそれが訊きたかったのかと、フリットは表情を消した。視線を操作パネルに向けてオルフェノアから顔も身体も背ける。

「肉体での接触が一番分かりやすいですから」

フリットがそう言ったことに対して、フレデリックは先程から歪めていた表情を更に歪める。一方、オルフェノアはその言に同意を示すように重く頷いた。妻がいる身としては当然というように。

「君の口からそういうことが聞けるとは意外なことだ」

そう仕向けたのだろうとフリットは声にしない。この男と話していると言いたくもないことを言わされる。本心と違うことでさえ。
虚勢を張るためとはいえ、嫌だと思った。先程顔を見たばかりだというのに、ウルフに会いたくなる。あの人の手が良いと。

「たまには別の相手を知りたいとは思わんかね?」
「思いません」

即答に強情な女だと内心で認(したた)め、オルフェノアもまたフリットから視線を外して前を見る。

「ところで、子息の父親についてはまだ公表していないようだが」
「不明朗な癒着について列挙致しましょうか」

脅しは通用しないと言外に強く含めれば、苦笑の吐息が返された。
弱みではないが、お互いに世に言えぬことがある証拠だ。情報を漏らすつもりはどちらにも無い。現時点でそれは双方にとって得策ではないからである。

目的の階に到達し、扉が開かれる。フリットとフレデリックは此処までだ。降りていくオルフェノア達を見送り、形式通りの言葉を述べて扉を閉じた。

溜息すら吐かずにいるフリットに、フレデリックはもう気を休めても良いのではないかと声を掛けたくなる。けれど、敬愛するこの人は何ともないと返事をすることが容易に想像出来た。
だから、白い狼が何処にいるかを出来るだけ自然に装った会話にのせて伝えた。それでも不自然であったであろうが、そこに触れられることはなかった。
司令室まで最短で辿り着ける階ではなく、途中でエレベーターを降りていくフリットを追いかけることはせず、フレデリックは後ろ姿を二枚の壁が閉じ消すのを見送った。

通路を二度曲がって、フリットはその人の姿を見つけた。本当は駄目だと、そう思う。けれど、理屈ではないのだと、心が訴えかけてくる。
謝罪の言葉を胸の内で呟いて、此方の気配に気付いてふと振り返った白い胸板に息を吐く間もなく飛びつく。

突然のことにウルフはフリットに抱きつかれた勢いを逃しきれず、一歩だけ後ろに下がる。けれど、しっかりと受け止めていた。
フリットとしては他にこの場に誰もいないのが幸いしているが、見られてはいるなとウルフはガラス張りの壁から眼下に広がる搭乗口に視線を落とす。







「オルフェノア首相、どうかなさいましたか?」

上にあげていた視線を警護員の一人に向け直し、オルフェノアは気にするなと表情に出しながらも口を開く。

「成人年齢の引き下げに、自分の息子を引き合いに出す気が知れないと思ったまでだ」
「フリット・アスノはそういう人物でしょう」

少しばかり目を瞑るにしても、ヴェイガンに対しての政策はそれでも異常さが垣間見えるほどに数々の計画や委員会を乱立させている。
軍隊は基本、男社会だ。そんな中で三十代の女が総司令官の座に着くなど、今までどんな手段を使ってきたか考えるだに恐ろしい。自分の子供を軍隊に放り込むことに躊躇いも胸の痛みも皆無に違いない。
全てを決められ、それに従い誇らなければならない子供が可哀相だとは思うが、そのような人生を課せられる人間として自分は生まれてこなくて良かったと、冷めた口調でオルフェノアの戯れの言葉に男は返した。

「上辺のこじつけだ」

同意の反応が返ってくると思っていた男は予想外の言葉に首を捻る。それに対し、オルフェノアは知らないのだなと納得の頷きを一つしただけだ。
総司令官といえども連邦を掌握出来る権限は無い。Xラウンダーというものがどれ程のものかという興味はあったが、オルフェノアにとっては何の脅威でもないというのが答えだ。

元々、男児が産まれた時点で軍に入れられることは決まっていたようなものであり、その時期を早めただけなのだ。そのあたりの事情を知る者は限られているため、オルフェノアとフリットの間だけではカードとしても使えない条件だ。けれども、会談という形で言葉にし記録されることによって意味は持つ。取引にしろと。
あの場では平常心を保っていたようだが、やはり女だなとオルフェノアは今一度思う。

「あれは感情で全てを捉えて動く人種でしかない」

眇めるように視線を再び上の方に向ければ、射貫くような狼の双眸が此方を見ていた。下にさげられている視線は見下しではなく、触らせるつもりはないといったものだ。
敵意に対してオルフェノアは見上げに見下しを含めた。
けれど、全てを荼毘(だび)に付すようにあれらから視線を外し、その動作の赴くままに背を向けてシャトルに乗り込むために歩みを進める。

行動も意思も感情に結びつく生き方をしている者は愚かだと、そういった自論を持つのがオルフェノアという男だった。精神や心理など、目に見えぬものを大事だ何だと言う人間だけは理解出来ない。これから先も理解しようとすらせずに時間を消費していくことに良心の呵責(かしゃく)すら感じない。
聖人君子に首相が務まるというのならば、この世界にいるのはただ呼吸をしているだけの傀儡共で埋め尽くされている。だが、そうではないからこそ、善人に政府支配は務まらない。

ある筋とのパイプが繋がっているオルフェノアはガンダムを排除する工作を幾度か仕掛けたが、成果は上げられなかった。そこでようやっとフリット・アスノという人物に意識を向ける契機を得た。
顔を合わせる機会が設けられ、初見での相手への第一感想は眼差しが強いことだった。屹然としている態度、高度な知識を持っていると判る語り口はオルフェノアにとっては近いものを感じ得ていた。この相手なら酒を飲み交わし、夜が明けるまで過ごすに値すると評価したが、見込み違いであったことは直ぐに分かった。
あの時点で彼女に子供がいたことが問題だったわけではない。周囲のレベルの低さに気付きもせずに対応している姿はどれも癪に障るものばかりだったからだ。その程度の女なのだと急激に腹の底が冷えた。

今日まで生き延びらせたのは、オルフェノア自身知らずに一縷の希望を抱いていたからであろう。しかし、それらは消え去る。
全てを塵に還す日はそう遠くないとオルフェノアは確信を持ち、狼目の残滓を睨み、瞼を伏せた。







声を掛けようとしたが、それよりも先にもっととしがみつくように身を寄せてきたフリットに言葉を閉じる。
抱きしめに応えてみれば、腕の中で息を吐く気配があったが、身体に入れた力を緩めようとしない存在に憤りを感じる。自分の知らないところで何らかの影響をフリットが受けるのは致し方ないこととはいえ、今回ばかりは容認出来そうにない。事情を聞いていなくとも、そんな確信があった。

ウルフがフリットの背を撫でていると、彼女はもう大丈夫だとウルフから指を離して、身を引こうとした。けれど、ウルフはフリットの腕を掴み引き寄せ、顔を上向かせる。
唇を奪おうとするが、触れ合う寸前でフリットが顔を背けた。引き剥がすように此方の胸を押し返すフリットに怪訝な思いが渦巻く。

「フリット」

名を呼べば、フリットは動きを止め、ウルフの胸板に腕を押しつけたまま躊躇に俯いた。噛み合っていない行動をしてしまっていることに後悔が追いかけてくる。
温かいものに触れたいとウルフに身を投げ受け止めてもらったのに、拒絶した。して欲しいと思っているのに顔を逸らしたのは、あの男に返した言葉がウルフに対しての裏切りになったのではないかという後ろめたさと、言葉通りであって欲しくないと抱いた感情からだ。
エレベーターの中での会話が頭から離れない。どうしても。

「―――すみません」

口から出たのはそれだった。繋がる行為は出来ないと。
怒られるだろうかと、そう身構えていれば、遠慮のない力で引き寄せられた。再びウルフの胸に身を委ねる形になり、フリットは瞬間、目を瞠る。けれど、次には敵わないなと細めて、抱きしめられるままに預けた。
これも繋がる行為に変わりないのかもしれないが、明確なものではないと、そうも思う。髪を撫でてくる手の緩やかな上下の動作。これらを受け入れられる相手はこの人だけだと、熱く想う。
途絶なく動き続ける静寂の時が、互いを結びつけることを信じて願うばかりだった。





























◆後書き◆

フリットがフリットで無くなることはないし、ウルフもウルフで無くなることはないだろうと。そんな具合です。
オルフェノアさんはそう出来なかった人として書いてしまった感じですが、実際はどんなもんでしょうと思ったり。機械的に矢印をフリットに向けるつもりが、思いの外強めになってもうたやもです。

「たいしたことでは、ないですよ」のフリットさんの台詞を全てひらがなにしたのは、甘え表現でして。書いて残しておかないと、後々書いた本人が忘れるでしょうからな。ああ、滝汗が。

Ewig=不変

更新日:2013/03/31








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