◆Weiβ polarlicht (7.5話)◆









医務室に戻ってきて早々、腕に抱えたハロごとベッドに潜り込んでシーツを被るフリットを見てミレースは瞬く。
重苦しいどころか、ふわふわとした空気を感じるので上手くいったのだろう。微苦笑をして小山になっているシーツの膨らみに言葉を向ける。

「一時間後に診察だから忘れないで」
「……わかりました」

シーツから顔だけを覗かせて、フリットは返事をした。それから、逡巡を置いてミレースを静かに見上げた。

「あの、ミレースさん………」
「きっと、ブルーザー司令も喜んでいるでしょうね」

言葉を詰まらせたフリットを助けるようにミレースは言った。フリットが訊きたかった内容とは違っていたが、元を正せばミレースの言が正解なのかもしれなかった。

「司令は貴女に負担を背負わせすぎているかもしれないって零したことがあるの」

ミレースはフリットと視線を合わせず、花瓶の花を入れ替えながらブルーザーが打ち明けてくれた話を聞かせた。

「男の子みたいに振る舞っていたのも実はすごく気にしていたのよ」

苦笑を濃くしたミレースの言葉にフリットは背を起こした。シーツが肩下まで落ちる。
ベッド上に座り込んだフリットは知らなかったとミレースの手元をじっと見つめた。
ブルーザーはフリットが知る限りでも一番の大人だった。とても尊敬しているし、伝えきれないほどの感謝もしている。彼がいなければ、自分の身寄り場所は何処にもなかった筈だから。

「それが貴女なりの虚勢だって理解していたから、尚更何も言えなかった」

フリットはシーツを握りしめた。ハロが見上げてきて、膝にこつこつと当たってくる。察してくれているのかよく解らないが、フリットがハロの完成を一番に見せに行った相手はブルーザーだったことが思い出される。
花瓶を整えて、花を飾ったミレースはフリットと向き合う。

「だから、幸せになるフリットを私も見たいと思っているわ」
「僕は、」
「そんな資格がないって言うのは無しよ。ブルーザー司令のためにも」

“ノーラ”で出迎えてくれた穏やかな笑みと“ノーラ”と最期を共にすると決意した穏やかな強さがフリットの胸中を締め付けた。自分を生かしてくれた人達のために自分が不幸を選び取るのは義ではない。それをユリンが教えてくれたばかりだった。

「はい……!」

肩に力が入っているフリットに真面目に捉えすぎていると感じたけれど、ミレースも彼女のこういうところを構いたくなるウルフの気持ちが解らないでもなかった。

「ウルフ中尉みたいなタイプが相手だって知ったら、ブルーザー司令といえども腰を抜かしてしまうかもしれないけれど」

きょとんと首を傾げているフリットに口が滑りすぎてしまったと、ミレースは揃えた指先で口元を塞ぐ。咳払いをして、診察時間を忘れないでと言い置いてからミレースは医務室を後にした。

診察の時間が近づいてきて、フリットは髪を三つ編みに纏め直した。
診察に訪れた医師は傍らに医療班の女性を一人伴って現われ、ベッド縁に座ったフリットの様子を細かに診る。会話も出来る状態に医師は微笑んだ。

身体に残っている擦り傷は大した怪我でもなく、あと数日で消えてしまうものばかりだとの診断だ。消毒をしてもらったフリットはもう一日だけ医務室で休むようにと念を押された。どうやら、自分が出て行ってしまってからこの医師は診察に来たらしい。遠回しにやんわりと咎められていた。謝罪すれば、医師はまた柔らかく笑んで、何かあったら直ぐに呼ぶようにと言ってくれる。

色々と検査されているだろうから、明らかなことはされていないと解りきっている筈だ。けれど、暴行されかけた此方の身を医師は親身に気遣っていた。
礼だけでは事足りないが、フリットが今出来るのは礼を言うことくらいだ。礼を受け取った医師からゆっくり休むように優しく促され、フリットはベッドに横になった。ハロもベッド上にいたが、邪魔にならないようにと、医師が座っていた椅子にハロを移動させた。

人の気配がなくなり、フリットは枕に沈む。唇に自分からした感触が未だに残っていて、そわそわする。
後で、とウルフは言っていたが、明日になるだろう。そう思えば一息吐けた。フリットは静かに目を閉じていった。





ハロが人影を察知して椅子の上でくるりと回る。危険とは判断せず、主人に知らせることなく人影の行動を黙認した。
薄暗い中でカーテンを開けた人影はフリットの寝顔を覗き込んだ。穏やかなそれに起こすのは忍びないと頬に掛かる前髪を退けてやるに留める。
頬を指先で撫でてから去ろうと腰を上げ掛けた。

「………フ……さん」

反則だ。寝言で呼んでくるのは。
夢の中で焦がれるくらいなら目の前の俺に焦がれろ。

人影――ウルフはベッドに乗り上がってフリットを跨ぐようにして覆い被さった。彼女の頬に唇を寄せて舌で舐める。
その感触と顎の位置を整えようとする男の指先にフリットはぼんやりと瞼を持ち上げた。視線の先にウルフの顔があり、愕いている暇もなく唇を彼のそれに塞がれる。

唐突すぎてフリットは身じろぎした。けれど、ウルフの手に頭まで固定されて受け入れる他なかった。抵抗しなかったのは、自分も求めていたことだったからでもある。
触れ合うなんてものでも、啄み合うなんてものでもなかった。ウルフの舌に口内を蹂躙されるような食み合いだ。口の中に潜り込んできた相手の舌に自分のが絡み取られる。
唾液の湿った音がするような深い口付けはフリットにとって未知だった。それでも、ウルフからのものなら拒みようもなく、自らも欲した。
妙な高揚感を覚えつつも少し苦しくなってくると、察したウルフが一時的に身をひく。

「後で覚悟しておけって言っただろ」

ウルフでさえ声が上擦っていた。自分がそうさせているのだと思えば思うほどフリットも情感の高ぶりを抑えられなくなる。
両手を伸ばし、ウルフの首後ろに手を絡ませた。

「覚悟、してました」

本心としては待ってくれと言いたかったが、フリットは負けじと眉を立てていた。ウルフが鼻を鳴らしたことで見抜かれていると突き付けられても尚、曲げなかった。

今は凄く弱味を見せたくないとしているフリットの頑なさは将来において面倒となり得るものであっても、ウルフからしてみれば可愛らしい意地でしかない。
額を突き合わせに行けば、獲物の吐息が此方の顎下を撫でる。熱くなっているそこを狼はもう一度塞いだ。
舌っ足らずなフリットの応え方はどうしようもなく不器用なものであったが、構うことなくウルフは貪ってやった。

息遣いと唾液の混じり合いだけが二人の耳に谺する。離す間際に唇を甘噛みして、表情が見て取れる距離に首筋を浮かしたウルフは呼吸の乱れるフリットを見下ろした。
泪を耐えたように潤んだ瞳の色はいつもと違った。透き通ったコバルトグリーンに見入れば、フリットは視線を横にして口元を手の甲で押さえた。
感情を整理している暇をウルフは与える気がなかった。開けたカーテンを閉める。カーテンの向こう側になったハロが視界に入らなくなり、完全に二人きりになった。

ぎし、とベッドの軋む音にフリットはそわりと身震いする。寒くはない。むしろ、熱を帯びてきている。
怖くはないが、ウルフの顔をまともに見る決心がつかない。硬く目を閉じているフリットの首筋を男の指が撫でた。

途端、医務室の扉が開く音にフリットはぎくりと凍った。
どうしようと考える間もなく、ウルフが密着してきて焦りが増す。腕の中に閉じ込めるように抱き寄せられて平常心が飛んでしまう。
誰かがベッドへと近づいてきたが、寝ているようだとそんな会話をした後で去っていった。ラーガンとミレースの声だった。
緊張を解したフリットは身動きを一切しないウルフに困惑を強める。しない、のだろうか。

腕の中で、身じろぎしたフリットが窺うように此方の顔を見上げてきた。上気した頬や濡れた唇を前にしてウルフはぐっと堪えた。
自分のものになったとはいえ、怪我人であることを忘れてはいけない。厭な思いをしたのもついこの間だ。

ウルフに頭を強めに撫でられ、フリットは痛みを覚えて顔を顰めた。まだ痛いだろと彼に指摘されて否定出来ない。ここで痛くないと言ってもウルフが肯定しないことは目に見えていた。

「これだけですか」

不服を込めて拗ねた。貴方が言った覚悟とはこれだけか、と。
言ってくれるとウルフは喉の奥を震わせ、フリットの唇から挑発を奪った。
骨抜きになるほど口付けのみで疵つけてやる。





目覚めると自分一人の空間で、背を起こして彼の姿をぼんやりと探した。
現実味があまり感じられず、思い違いをしていただろうかとシーツを手繰り寄せて膝を抱えた。シーツに鼻先を近づけたところで仄かにウルフの匂いが香った。途端に朧気だったものが鮮明に思い出されてフリットは息が跳ね上がる。
抱かれてはいないけれど、抱きしめられた。身体も余すことなく触られたが、毛繕いをするように優しくだ。

片手では足りなくて両手を唇に持っていく。
もっと先があるというのに、鼓動はもうこれ以上は無理だと訴えている。煽った記憶があることが何とも言えない。慣れるにしても後どれだけ重ねなければいけないのだろうか。
今の関係を当然として受け入れるべきなのは判っているつもりだ。ただ、それが何時のことになるのやら。
シーツの残り香は落ち着かない。けれど、気持ちは穏やかになる。それが不思議でおかしくて、でも、大切にしておこうとフリットは決めた。

もう一度、医師からの診察を受けて自室での療養許可を得たフリットは作業着姿で通路を進んでいた。看病でじっとし続けていたハロは思う存分に跳ね回っている。

『元気!元気!』

ハロなりの励ましの言葉だ。行動を制限するよう大人しくさせることも出来たが、通路に人影もなく苦笑に留めていた。
しかし、通路を折り曲がってくる人影があった。危うくハロと衝突するところでフリットは焦って駆け寄る。

「すみません」

ハロを受け止めた褐色にドレッドを持つ男はフリットの知る人物だった。懐かしい顔に向こうの表情も幾分か柔らかい。

「三年ぶりか」
「そうですね。アダムスさんは定期報告ですか?」
「ああ」

かつてのディーヴァクルーの一員であり、航行統括を担っていたアダムス・ティネルはフリットへと頷いた。

当時のディーヴァの人員達には定期報告が義務づけられている。いわゆる監視だ。グアバランの助言のおかげで常時監視だけは避けられたことは幸いだと言えよう。
ビッグリングにフリットはそれなりに顔を出している方だが、アダムスとは今まですれ違い続けていたから本当にあの日以来だった。

改めて怪我はありませんかと尋ねてハロを受け取ろうと前に出た。しかし、アダムスが一歩二歩と下がってしまう。

「どうかしました?」
「いや、ラーガンから聞いたんだが、あまり近づかないほうがいいだろう?」

どうやら先に出会したラーガンから聞き及んでいるらしい。見掛けたら不用意に近づいたりしないよう言い含められたところか。
心配は有り難く感じるが、そこまで腫れ物扱いされるのも困るというものだ。

「平気です。病室にいる必要もなくなりましたから」

落ち着き払ったフリットの口調は信じられるものだった。そう思わされると表現するのが正しいかもしれないが、アダムスは自然にハロをフリットに手渡していた。
受け取り、ハロに視線を落としたフリットは大丈夫であったと安堵を実感する。厭な覚えは残っているが、ウルフに触れられた温もりが充分に勝っていた。
ところで。アダムスはどこまで聞いているのだろうかとフリットは身構える。無論、ウルフとのことだ。

「急いだほうがいい」

と、向こうから話を切り替えられてフリットは面を上げた。知らされていない様子のフリットにアダムスは表情を動かさず核心を突いた。

「ウルフとミレースが乗るシャトルが出る時間だ」

今までにない焦り様を見せたフリットの遠のく背中をゆっくり見遣ったアダムスは半信半疑だった事実を腑に落とした。
行き交ってすれ違う者達の会話もそのことで持ちきりであったり、ラーガンから詳しい内容を聞いてはいたものの、自分が知る二人の関係性はパイロットとして信頼を置ける間柄に留まっていたからだ。
ウルフとミレースとも少し話をしてきたばかりだが、ウルフはフリットのことを口にしなかった。自己主張はする男だが、主張で周囲を巻き込む愚鈍な質とは違う。

アダムスがウルフと直接言葉を交わしたのはそれほど多くはない。彼の印象の大半はラーガンを通した間接的なものばかりだ。ラーガン曰く、レーサーのイメージを持ったまま関わろうとしたら目を剥く、のだと。
多かれ少なかれ、芸能人の表と裏には差異がある。詰まるところ、ウルフにもその一端があることだけはアダムスも理解を示している。社会に出れば、表向きだと便利な言葉ばかりを使うようになるのだから。
それにしても、見送ってくれと一言告げることを避けた理由は理解しかねた。





発着場手前の待機室でミレースは身を静かに落ち着けていた。シャトルラックへGエグゼスの搬入が終われば、自分達もノーマルスーツを着用してからシャトルに乗り込んでビッグリングを発つ。
向かいの席で口数の少ないウルフをミレースは呆れ目で見遣る。

「見送って欲しいなら、今からでも言ってきたらどうですか?」
「そんな間抜けなこと出来るかよ」

何を格好付けているのだろうかと、ミレースは益々呆れる。今日になって顔を合わせてから彼の様子にはぎこちなさが含まれていた。
昨日、医務室に戻ってきたフリットは戸惑いながらも晴れやかであった。その後でフリットに何かしたのだろうか、この男は。

しかし、そんな時間があったとは思えず、ミレースは内心で首を捻る。あれからあまり時間を置かずにラーガンと共にフリットの様子を見に行けば、彼女は静かに就寝していた。その時に数時間後には此処を発つことを報せようとしたのだが、寝かせておくことにしたのだ。
デインノン基地に到着したら連絡を入れようとミレースは決めている。

「何かやらかしたんですね」

ミレースからの痛い視線にウルフは眉間に力を込める。彼女は問い質してきたのではなく、独り言のように空中へと語りかけていた。
返答を求められていないことに短く息を吐き出したウルフは視線を横に投げた。ミレースが指摘した通りだ。やらかした。フリットの唇を貪り尽くしてから、我慢出来なくて。
抜いた。

それは男の生理現象として今までも繰り返している。だが、今回ばかりは勝手が違っていた。フリットをおかずにして抜いてしまったのだ。彼女を対象にしたのは初めてで、かなり興奮したというのがウルフの正直な感想だ。

本当にフリットに直接手を出したとしても、既に咎められない関係である。同意の上であればフリットの兄貴分であるラーガンも苦い顔をしないだろう。
周囲の是は想像に難くない。しかし、ウルフは自身の衝動へと苛みを向けていた。抜いた快感が消えきっていないままフリットと顔を合わせたら、そこがベッドだろうがソファだろうが通路だろうが構わず抱きたくなる。というか、抜いてから直接抱きたくて仕様がなくなっていた。

今はすべきでないと理性が下したばかりだ。あの時抱いておけば……と、邪な考えは渦巻いている。けれども、獣を押さえ込めたことを一番に安堵していた。
これまでだって何事にも本気で向き合ってきた。それでも、フリットには本気以上の本気であるのだと内なる己が吠えている。
それなのに。これから先、とウルフは感慨を捨てきれずにいた。

「Gエグゼスの搬入が完了しました。お二人もお願いします」

整備士のアルフィが扉から顔を出した。ウルフとミレースは席を立ち、それぞれでノーマルスーツの着替えに向かう。
アルフィは二人の了承の声を聞いて、発射準備のためにシャトルの方へ一足先に戻ろうと踵を返す。そうして後ろを見て、動きを止めた。自分が入ってきて一度開いて閉じていた扉が、誰かの入室で開いたのだ。

「あの、ウルフさんは、まだ」

いますか?と走ってきたと判る息切れで問うてきたのはフリットだ。
アルフィは身を退かして、ウルフの姿が彼女に見えるようにしてあげた。すれば、ウルフが険相を称えていて不思議に思う。
ミレースもフリットの姿に気付いて、アルフィに目配せする。二人が気を利かせて室内から出て行くのをウルフは険相を深めながらも引き留めなかった。

室内の壁は一面だけが窓張りになっており、発着場が見渡せるような造りをしていた。そちらに目を向けたウルフは、搬入されたGエグゼスはデインノン基地からの整備士二人に任せているから心配の必要はないと考える。
一端、意識を外に向けた後で、ウルフは内側を見遣る。恬然としたフリットの常と変わらない姿勢を前にしたら自分に抱く指弾が幼稚なものに思えてきた。
冷静沈着はフリットの本質であり、ウルフが最も認めている部分だ。

しかめ面をやめたウルフにフリットは静かに近づく。その後ろをハロが転がってくる。
息切れは落ち着いたが、走ってきたことで身体が温まっていた。感情の部分ではそれなりに整理が出来ているからウルフには平常的に見えているはずだ。

「どうして何も言わないで」
「黙って見送るのが良い女の条件だってのは、頭にたたき込んでおけ」

まだ言い終えてもいないのに声を被せられた。それをこの場での最後の言葉にしようとするウルフに戸惑いを感じながらも、フリットは表情にしなかった。彼の声色が吹っ切れたものであったからだ。
顔を見合わせた途端に険しい面持ちをしたのは自分のせいだろう。原因の目星は付いていない。けれど、彼の中にあった煩わしさを解したのも自分のはずだ。
自惚れだと悲観せず、誇りにしたい。その決意は硬いのだけれど、時間は全然足りていなかった。面と向かってはっきりと言い返せるほど育っていない。
だが、兆しとなる萌芽がフリットを動かした。自分が芽吹かせたのではなく、ウルフの存在があってこその。

横切ろうとするウルフの袖を掴んだ。振り解こうと思えば簡単に振り解ける。それなのに、彼は留まった。本心では待っていてくれたのではないかと、フリットの芯は熱を帯びた。

「次はいつ会えるか判らないんです。だから、一緒にいたいです」

時間ぎりぎりまで。言ってしまってから、フリットは強い不安に襲われた。ウルフが同じ気持ちとは限らない可能性を思い付いたからだ。彼が口にした黙って見送れが本心であり要望であったなら、自分は滑稽なことをしでかしたことになる。
熱が冷えていく重たさにフリットは俯く。

冷静に物事を考えられなくなっているフリットにもどかしくなる。直ぐにでも掻き抱きたいとウルフは手を持ち上げた。しかし、その手はフリットを引き寄せるのではなく、彼女の肩を掴み触れるだけに堪えられた。
片膝を付いてしゃがみ込んだウルフはフリットの表情を捉え、こんな顔をさせてしまったのかと、肩を掴んでいない方の手で彼女の頬に触れた。

濡れていないのに男の指先に目元を拭われ、フリットは首を横に振ろうとする。泣いていないのだから必要なかった。こんな時に気を遣わないで欲しい。

「やめ……」
「お前から抱きついてこい」

フリットはピタリと動きをとめた。しゃがみ込まれてから、ウルフの言動が突拍子のないものばかりで混乱する。
どうすればとフリットがおろおろすると、頬に触れていた手が遠のいた。ウルフが自分の首を擦る。彼の表情を捉え、フリットは困惑を解消させた。どうやら、ウルフの方も困りきっているらしい。

両膝をついて目線の高さを近くにすると、フリットはウルフに抱きついた。しがみついてくる柔らかさをウルフは抱き留める。
すんすんと鼻腔を寄せてくるウルフの行動につられてフリットも彼にすり寄った。シーツの残り香よりも濃い存在の確かさに締め付けられる想いが募る。唇に残っている感触が熱く蘇ってきて焦げ付きそうだった。

高揚し始めているフリットの匂いにウルフは唾液を呑み込んだ。自身を落ち着ける意味をも含め、抱き留めているフリットの背を撫でる。
早計過ぎたことを鑑みていた。フリットにはまだ少し早すぎたのを認める。いつも通りかと思いきや、細かい部分で空回りしているのに遅れて気付いていた。

「やっぱ、刺激が強すぎたか」

身じろぎしたフリットが顔を上げて何のことだと首を傾げている。問いの視線を向けてくるので、ウルフは彼女の耳元で囁いてやった。
耳朶に響いた獣声を聞き入れたフリットはひくっと身を引く。けれど、ウルフの両手に頬を包まれて距離は留まる。互いの息が掛かる近さに身構えているフリットの初心さにほくそ笑んで、ウルフは彼女の頬をふにりと撫でた。
硬くなっていたポーカーフェイスを崩され、頬のこそばゆさにフリットは目を閉じる。

ノーマルスーツを着用したミレースは半重力となっている発着場に先に出ていた。
ウルフの準備が出来るまで幾らでも待てる心積もりだが、こちら側から見えていることは考慮しておいてもらいたいところだ。野暮なことは遠慮したいミレースはシャトルの方に降り立っている。
しかし、デインノン基地から赴いているエンジニアのラグとヨハンは待機室近くに寄っている。アルフィは二人をそこから引き剥がそうと躍起になっていたが、突然身動きを止めた。
彼らを見上げていたミレースはやれやれと思う。

「こんな時世だから、幸いは多い方が良いけれど」

と、呟き零してミレースはシャトルに乗り込んだ。操縦桿周りの機器を満遍なくチェックし始める。

ミレースがやることをやっている間、ウルフとフリットの成り行きが気になっているエンジニア達はとうとう窓に張り付いていた。発着場の整備士達も仕事の傍ら、ちらちらと視線を待機室と仕切られている窓に向けている。

頬に触れている前髪ごと、くしゃりと撫でてくる男の手は無骨であるのに大切だと込めている気持ちが掌から伝わってくる。ウルフらしくないと思うのに、ウルフらしいと納得してしまえた。
受け入れるとは、相反するものを同時に存在させることではないだろうか。そうやって、己自身の中にある理解しがたい情感と和解していく。誰かと繋がるために。

最初は厭々と逃れようとしていたフリットはウルフから伝えられる温もりに絆されてしまっていた。自分から頬をすり寄せるように、ウルフの手の上に自分の手を重ねてフリットは求めた。
フリットの左頬を捉えるウルフの右手は彼女の手が絡められている。彼は左手を彼女のくびれに持っていき、密着をさらに引き寄せた。
唇が重なり合うまで僅か。

「あっち見ろ」

目を閉じようとしていたフリットは遮るウルフの声に瞬く。顎をしゃくった方を見遣ったフリットは慌ててウルフから距離を取って立ち上がる。
窓に顔を押しつけている人影が二つあり、その後ろで両手を合わせて頭を下げている顔見知りの整備士がいた。見られていたことにフリットは窓に背を向ける。

慌ただしくなったフリットの様子を目に入れ、ウルフは潮時だなと腰を上げる。出立の予定時刻は少し過ぎていた。

「焦るなよ」

同時に背中を叩かれてフリットは顔を上げた。ウルフからの助言に反抗をするつもりはない。頷き返したフリットを見下ろしてウルフはその頭を乱暴に撫でくった。

「じゃあな、フリット」

乱された髪を仕方なさそうに手櫛で直しながらフリットはウルフを一瞥する。

「ウルフさんも元気で」

特に代わり映えのない挨拶だった。何かが劇的に変化するのでないかと期待を持っていなかったと言えば嘘になる。けれど、惜しいという気持ちもなければ、残念でもなかった。
今という「いつも」が掛け替えのないものであることを失い続けたフリットは良く知っていた。ウルフとの間にある「いつも」もそうだ。失いたくない。

ウルフとミレースが搭乗したシャトルを窓の向こうに、フリットは待機室から彼らを見送ることにした。流石に露骨な野暮な視線は無くなっている。
シャトル用の滑走路の先にある巨大シャッターを開ける準備が開始される。フリットは窓に片手をつき、額をこつりと冷たさに触れさせた。寂しいと思うのは久し振りな気がする。
憔悴していたフリットであるが、目下の信じられない光景に窓から面を上げた。あの人は一体何をしているんだと瞠目する。

シャッターは開かれ、発着場は完全に無重力となっている。シャトルを発進させねばならないというのに、シャトル後部のラックが開かれてGエグゼスが姿を現した。
コクピットの中でウルフはディスプレイに映し出されるフリットの姿を拡大した。何か喚いているなと口の動きを読む。まあ確かに常識外れなことをしているだろう。しかし、飛行機器にモビルスーツが掴まって飛行することは可能範囲だ。これくらい大丈夫だろう。

「名残惜しいのはお前だけじゃねぇぞ」

ウルフはコクピットの中だけに響かせた。

何をやっているんだ。早くシャトルのラックを閉じろ。と、届かぬ声で口を開いていたが、Gエグゼスが動きを作るのを見てフリットは固唾を呑む。
Gエグゼスの右手が持ち上がり、掲げられ、薬指と小指が握られる。ウルフのいつもの、トレードマークとなっている決めポーズだった。

もっと大事なことだと思ったのに。フリットは正直に感想した。けれど、満たされてしまっている自分にしっかり気付いていた。
肩を竦めることでウルフへの返事とした。

ラックからGエグゼスが顔を出したまま、シャトルは宇宙へと飛び立った。





























◆後書き◆

Weiβ第一章7話「Weiβ polarlicht」のすぐ後。蛇足になってしまう不安がありつつも、後日談でのあのウルフさんとフリットちゃんの距離感と7話での両想い成立直後の距離感の間がどうしても書きたくなり書いてしまいました。
フリットは自覚した瞬間は自分から行動するも、少し冷静に自分を見つめ直す時間が出来るとやや尻込みしてしまい、ちょっともどかしい思いを後日談でウルフさんがすることになる流れを埋めることが出来ればと。


web拍手掲載日:2015/10/13
更新日:2017/01/10








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