◆Trauer◆









ピタ、と艦内通路でナトーラは足を止めた。通路の先には後ろ姿が二人分あった。彼らはナトーラの気配に気付いておらず、下賎な会話を続けている。
まだ、自分のことが話題だったならばどんな内容であれ虚偽であれ、自分が悪いのだから致し方ないと整理出来ただろう。耳に届いてくるのは単なる噂話であるはずなのに、意外と困惑が混濁する内容だった。

この場から立ち去らなくてはいけない。ナトーラは遠回りになるが、後ろを振り返った。
ぎくりと全身を凍らせたナトーラの心臓は飛び跳ねそうだった。
下士官達の下賎な噂話の的になっているフリット本人がそこにいたのだ。声を出さなくて本当に良かった。

今からナトーラは彼から指導を受けることになっている。同じ場所に向かおうとしていたはずだから通路で出くわすのは珍しいことではない。しかし、タイミングが悪過ぎるとナトーラの顔は青くなる。

フリットはナトーラの顔色の悪さを内心心配した。睡眠をとれていないのではないかと思えたのだ。彼女に近づいたところで、談笑の声がフリットの耳にも届く。遠くなった聴覚がもどかしいが、大体は理解した。

小さく吐息したフリットはナトーラを一瞥し、踵を返した。一瞥は着いて来なさいという合図だろう。ナトーラはフリットの後を追った。指導室として利用している一室に辿り着く。勿論、遠回りをして、だ。
いつも通り、席に座るようフリットからの指示がありナトーラは従う。

フリットの講義は艦長としての心構えから始まり戦術指揮の基礎と応用にまで至る。彼の積年の功績や戦歴は誰もが目を瞠るものであった。退役してからも軍に口出しすることに関しては上層部から煙たがられているが、無視出来ない理由がそれだ。

ナトーラは別段、フリットを鬱陶しい老人と見たことはない。教え方が上手くて感嘆するほどだ。最初は説明がなかなか頭に入っていなかったのだが、フリットが教え方を変えた。それから、すんなりと憶えられるようになった。

艦長であるナトーラにはやるべき仕事が膨大に積み重なっている。こんな講義を受けている時間はないと言えるほど。
では、何故その時間が取れているのかというと。フリットがナトーラの仕事を一部肩代わりしているからであり、他のクルーもなんだかんだでこの年若い艦長の手助けを惜しまなかったからだ。
それらの力で作り出された限られた時間は貴重なものだ。ナトーラは有難さを理解出来る心優しさを持っていた。
そうであるから、集中出来ていない自分自身に焦燥を感じて萎縮に萎縮を重ねていた。

「身が入っていないな」

難色のあるフリットからの指摘にナトーラは肩を跳ね、怯えて表情を弱めた。怒られてしまう。予想した恐怖に身体が冷えていく。

「すみません」

肩身を狭く謝罪したナトーラにフリットは顎をかく。彼女が集中出来ていない原因を理解していたからだ。悪いのは彼女ではない。
立って講義をしていたフリットはナトーラの隣の席に腰を落ち着けた。

「気になっているんだろう」
「い、いえ!そんなことは!」
「本当のことだ」

慌て焦るナトーラとは対照的にフリットは落ち着き払っていた。
ナトーラもフリットの様子にあてられて大人しくなるが、彼の発言は俄かには信じられなかった。そもそも、通路で聞いてしまった下士官達の会話は根も葉もない噂話でしかないはずだ。昔、フリットが男とベッドを共にしたことがあるなんてことは、嘘だと。
そう思い込もうとしていたナトーラは真実だと語るフリットに驚きを隠せない。

「そう珍しいことでもない」

淡々と続けられた言葉にナトーラは感嘆を零しそうになるが、はてなと首を傾げた。
理屈が解っていないナトーラを前にしてフリットは彼女の天然さに苦笑する。

連邦軍の男女比は圧倒的に男性の割合が多い。女性は全体の三十パーセントにも満たなかった。
簡単な数の話だ。性処理の相手は全体数の多い男が手近である。人によってはデメリット回避の意味もあった。
それらの説明を惜しむ理由はなかったが、フリットはナトーラへの説明を省いた。彼女自身とは縁の無い話であるべきだと判断したからだ。

「珍しくないから、なんですか?」

フリットの人柄をナトーラは充分に理解していない。していないが、フリットはそんな在り来たりな理由で軽率とも言えることをしない人だとナトーラは信用していた。
だから、確かな理由を聞いてみたいと思ったのかもしれない。前はフリット相手に萎縮してばかりであったが、少しずつ自分の意見も主張するようになっていた。何でもかんでも頭ごなしに否定する人ではないと思っている。

「私と彼は、そうではなかった、のかもしれないな」

客観的に見れば珍しくもない。だが、当事者の理由は別だった。
苦い思い出とは異なる。彼のことを思うと苦しい気持ちは今もあったが、それは自分だけの感傷だ。
彼と共有した関係を明確に言い表す言葉は、今も見つけられずにいる。

「そうではなかった理由はお聞きしていいんでしょうか……?」

遠慮の空気がある隣人にフリットはそこまで畏る話でもないのだがと、机に肘をのせて両手を組んだ。

「今振り返れば、必要のあった行為だとは思えない。だが、後悔を感じてはいなかった」

過去を思い返し、彼を思い返す。

「あの男はモビールスポーツの元レーサーでな、元来の性格もあって軍の中でも異例だった」

レーサーの経歴を持つモビールスーツパイロットは現在でも珍しいものでない。還暦よりも随分早く引退時期がある。食い扶持を繋ぐためだとか、働く決心が付いただとかの理由を述べる者が多かった。
そんな中、彼がフリットに語った理由は「飽きた」だ。聞いた此方のほうが呆れてくるほど、彼は簡潔に片付けた。

その短すぎる言葉に色々な意味と決意が込められていることを理解するには自分はまだ幼すぎて、未熟だった。彼の中に存在した真意を理解出来るようになったのは抱かれた後で、後悔よりも矜持を得ていた。
行為が明確な手掛かりであったわけではない。それ以外の時間の共有のが遥かに多く、その時間の積み重ねによるものだ。

きっと。と、付け加えてしまうのは彼の前では年相応の憤慨を見せていたからだろう。悔しいと思ったのは一度や二度ではない。抱かれた時もそうだった。
あんな行為を許したのは、悔しいと思える相手だったからこそ。

「仲が宜しかったんですか?」
「それなりにな」
「なんて言っていいのか……意外です」

元レーサーなんて軽そうな男と親しかったとは俄かに信じ難いのだろう。意外だと周囲に感想されたのは初めてではない。懐かしさにフリットは苦笑に皺を深めた。

「昔から変な人だと思っていたが、ずっとそうだった」

相変わらずだ。自分が総司令官という肩書きを得てからも気さくな態度は以前となんら変わらず。彼のそんな近しい態度をフリットは咎めないどころか、安堵すら感じていたわけだ。場は気が届く分には弁えていたからこそ、暗黙され続けた。

肩を震わせながら、最初は「ガンダムに乗るのは俺だ。勝負しろ」と彼に宣戦布告を受けたことを続けて語った。二十三の男が十四の子供に正々堂々と食って掛かってくるとは。
フリットがそんな経験をした相手は生涯、あの白狼しかいなかった。今思い出してもおかしくて、フリットは感情のままに表情にした。

「素敵な人ですね」

からっとした。本当に思ったことを口にした声だった。
何の含みもなく感想したナトーラは自分を見て目を丸くしていくフリットにつられて目を丸くする。

「あ、やっ、あのッ、元司令が幸せそうな顔で語られるので、勝手に想像しただけで!」

両手をばたばたとあげて、慌てふためくナトーラは目ぐるぐるさせる。支離滅裂なことまで言っていて何が何やらである。穴に入りたい。

「艦長」
「は、はい!ごめんなさい!」
「私は君に礼を言いたい」
「すみませ……え?」

ぱたりと動きを止めたナトーラは不自然なポーズだった。しかし、フリットは笑うでなく、至極真面目にナトーラを真っ直ぐ見つめた。それから朗らかに表情を優しく緩める。

フリットのひどく優しい面持ちは彼の大事な人からの贈り物に違いないとナトーラは感じた。
表情筋の衰えと皺のせいで、常に憤慨を称えたような顔になってしまう。表情が滅多に変わらないフリットが彼のことを語りながら少年のように表情をころころと変える。だから、素敵な人と言い表したのだ。厳格なフリットに柔らかな顔をさせられる人なんだと。

「嫌煙されるかと思っていた」
「いえ!そんな……」

フリットが表情を沈めた理由は、嫌煙という言葉を紐解けば何となくナトーラも察した。奥方への不義と感じ、相手とそういった関係でいたことを認めているのだ、と。
けれど、ナトーラはそれが許されないことであると断言出来ない。フリットの奥方であるエミリーの話はキオやユノアを通して聞いたことがある。きっと、黙認していたのではないだろうか。そう想像した矢先、フリットは彼と奥方も顔見知りだと教えてくれた。
それを聞いてナトーラは確信せざるを得ない。自分でも気付けたのだから、フリットの奥方だって気付いていた。誰が誰を支えているかなんて。

フリットから失わせてはいけないものだと不可侵を決め込んだ。自分が同じ立場だったなら、そうするだろうとナトーラは思う。いっそのこと身を引いていたかもしれないけれど。
だから、奥方がフリットの傍にいるのは、彼女もまたフリットにとって必要不可欠な人であるからだ。

人は独りで生きていけないし、二人でも生きていけないといった考えをナトーラは持っている。
絵本や童話が好きだった。幼い頃、読んだ物語の中で二人がハッピーエンドになる話を父親にも教えたくて舌っ足らずながらも一生懸命に伝えた。すれば、教養として父親は長続きしないと諭し返してきた。
夢のない思い出だ。父親に対してあまり良い感情を持っていなかったが、今なら少しだけ理解出来る。父親なりに世間で失敗しない助言をしてくれたのだと。けれど、ナトーラにとってその言葉は絶望の烙印だった。
それ以来、夢を見ず、現実に身を任せた。抗いたいという本心を見抜いて手を差し伸べてくれた人もいた。けれど、全部駄目にしてしまった。

今のナトーラは多くの人に支えられていた。彼女はやっと、自分の居場所を見つけられたような気がしている。
幼い頃に思い描いていた夢は叶わなかった。けれど、自分に出来ることが一つ一つあるのだと判り始めてきて、戦時中に不謹慎だが楽しいと充足していた。自力で自慢出来るものは何一つ持っていないけれど、ディーヴァクルー達はナトーラが胸を張って誇れる自慢の仲間だった。

一人よりも二人。二人より三人。三人より大勢。助けてと声にすれば助けてくれるのは一人だけではなく、みんなだった。
今の状況は大変なことばかりだが、何とかやっていけている。抗う時間さえ忙殺されていた。いや、抗うということさえ、自身から消えている。

長く生きてきたフリットも多くの人に支えられているのは間違いないはずだ。その中でも特別なのがフリットが語る彼なのだと、素直にナトーラは腑に落ちていた。
自分にも、そんな存在になりかけている人が身近にいる。軍帽を綺麗に整え直してくれたセリックが心内で自然と形になったが、ナトーラは自分の感情を捉えていなかった。セリックに妻子がいることを気に掛けるところまでナトーラの情感が成長しておらず、芽生えてすらいないからだった。

気を取り直すということすらせず、ナトーラは尋ねる。多分、今一番に訊きたいことだ。
彼は、生きているのだろうか。それとも、安らかに生涯を終えたのだろうか。

「それで、その方は」
「戦死した」
「……そう、ですか」

それ以上を言えず、沈黙してしまう。フリットの声色や達観した態度から、もう随分と昔のことであることが窺えた。全く予想していなかったわけでもないが、苦しさが伝わってきた。
すうっと息を吸って、ナトーラは決意を固めた。

「その方の名前を教えてもらえませんか?」

ナトーラの申し出にフリットは瞬きながらも、彼の名を口にする。

「ウルフだ。ウルフ・エニアクル」

言い切った後で上手く口が回らなかったとフリットは自己採点した。彼のことを何度も想えど、もう何年もウルフと呼ぶことも言うこともなくなっていた。無性に胸に込み上げてくるものがあった。

「時間だ。明日はしっかりと講義をする」

早口に言って席を立ったフリットにナトーラは頷く。彼の背中にあった感傷には気付いていないふりをして。

決意を持って、ゆっくりと席を立ったナトーラは自室に向かう。
軍のデータベースにウルフ・エニアクルという名前を入力すれば、簡単な履歴が検索結果として出てきた。それ以上の詳しいものはいらない。愚劣な詮索をする悪意を持っていないと信じて名前を教えてくれたフリットにナトーラは感謝した。
ただ、知りたかっただけ。彼の顔さえ判れば描けるから。

元レーサーだとも聞いたので、一般ネットワークも検索すれば多くの件数がヒットした。一晩では追い切れない数に驚きながらも、画像に絞ればいいだけの話だ。
ナトーラは愛用のスケッチブックを開いた。右手に鉛筆を持ってキャンバスに描き始める。

完成した絵を見せたい人がいる。見せたらどんな顔をするだろうか。初めは目を丸くするに違いない。その後がナトーラにも想像出来なかった。笑ってくれるのか、泣いてくれるのか。
どちらであったとしても、どちらでなかったとしても。「その絵はプレゼントです」と言って渡そう。フリットは戸惑いながらも、受け取ってくれる。大切にしてくれる。
そういう優しい人だ。

「元司令って面食いだったんですね」

手を動かしながら本人の前では絶対に言えないことを口にして、ナトーラは手元に集中した。
ふと、途中で手が止まり、ナトーラは思い出していた。忘れるように閉ざした自分の夢。童話の挿絵を描く人になりたかったんだ、と。





























◆後書き◆

アニメ基準で、フリットのことは元司令呼びにしました。小説版だとナトーラちゃんはやや擦れた内情をお持ちだった記憶なので、アニメの自信がなくて軟弱な気質のイメージで書いてます。ちょっと天然すぎに書きすぎてしまったやもですが(汗)。セリック←ナトーラの部分とか特に…。
がっつりウルフリを書けたわけではないんですが、フリットの中でどんな風にウルフさんへの感情を昇華しているのか考察したり想像してもらえる切っ掛けとなれたら嬉しいです。


Trauer=弔い

更新日:2015/10/04








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