フリット♀(39歳)・ウルフ(23歳)・ラーガン(28歳)・ミレース(49歳)
アセム(17歳)・ゼハート(17歳)・シャーウィー(17歳)・マシル(17歳)
ユノア(14歳)・ロマリー(17歳)・フラム(17歳)

アセムとユノアの父親が不明。































◆Anfang◆










室内にいた全員が一度は出入り口に目を向けたが、各々は見慣れ始めた光景だとばかりに近辺の者との雑談に戻る。それでも聞き耳は立てているなとラーガンは周囲の空気を読み取る。
近づいてくる彼女に軽い声で呼び掛けたウルフにもう少し立場を考えたらどうだという視線を送れば、向こうは手を振って取り合わなかった。
自分のものと完全に決めつけてしまっているようだ。彼女はそれでいいのだろうかと疑問を持ちながら立ち上がろうとしたが、彼女からの仕草でラーガンは浮かしかけた腰を下ろす。

「少し、いいか?」
「どうした」

ラーガンの向かい側の席に落ち着いているウルフの方を見遣ったフリットが遠慮がちに口を開いて、彼からの促しに小さく頷く。
しかし、なかなかそれから口を開こうとしないフリットは手元でああでもないこうでもないと落ち着かない様子を置いている。ウルフが首を傾げた動作に慌てる顔を一瞬見せると、決意が固まったのか、右手を左手で包むように握った。フリットはウルフの蒼い目と相対すると、引き結んでいた唇をゆっくりと開く。

「私の家に来てくれないか」
「いえ?家って」
「模擬戦の、言っていただろ」

ウルフの言葉に被せるようにフリットは続けた。相手の問い質しを無視するのは心苦しくもあったが、一気に捲し立てなければ言える内容ではなかった。

「それが有効なら、その、子供達に会ってほしい」

言い切ったフリットが不安に瞳を揺らした。模擬戦の勝利権限は何でも言うことをきくだが、可能な範囲であることが条件だった。その確認は数日前にウルフからも取っている。
本人の意思を尊重する意味での可能だ。だから、ウルフに拒否権はある。

「いいぜ」

愕きと緊張を同時に顕したフリットに真面目な顔で返事をしてから一拍後で調子の良い笑みをウルフは浮かべた。
模擬戦のあれを持ち出されなくても返事は決まっている。けれど、フリットはそれを持ち出してこなくては踏み切れなかったのだと思えば頬がくすぐったくなるというものだ。

「いい……のか?」
「子供の顔も見てみたいしな」

安堵の匂いを持たせたフリットは日程などは此方で調整すると話を進める。シフト時間は希望を申し出ることは可能だが、フリットは此処の最高責任者だ。彼女に任せたほうが無難であろうとウルフは頷く。

「アセムとユノアには先に伝えておく」
「なら、婚姻届も持っていっていいか?」

それはまだとフリットは顔を逸らした。はっきりと彼女からの返事をウルフは貰えていなかった。フリット本人の気持ちが此方を向いていても、頷けない理由があるからだ。
椅子を引いたウルフが立ち上がり、間近になった相手にフリットは困り顔で向き合う。

「子供らがいいって言えばサインするんだよな」
「……別に紙面でなくとも」

婚姻申請の方法は幾つかある。電子的な届けだと本人確認のために必要なものが多くなるが、面倒というほどのことはない。
とフリットは思っているが、ウルフの性格を考えると紙面で届けた方が実感が得られる理由を持っていそうだ。

「焦りすぎじゃないか?」

割って入ってきたラーガンの声にウルフは横目を向ける。その表情に邪険はない。この間のことでフリットの印象を悪く捉えている者は少なくない。真新しい話題でもあれば噂の類はすぐに移り変わるのが人の心理だ。
手っ取り早くと焦っていた自覚は指摘されなくてもあったウルフはフリットから身を引いた。

「私としては、その方向でまとめたいと思っているから」

不安は残っている。けれど、迷いではないからフリット本人は決断が出来ていることだった。強い声では言えなかったが、控えめに主張する。
その一点については気持ちは一緒だと、フリットなりに伝えた。すれ違わないように。

すると突然、ウルフが悪態じみた短い叫びを吠えた。うだうだと考えていたものを捨てた顔でウルフは少し驚いているフリットにもう一度詰め寄る。

「それ、俺のこと好きになってるってことだよな」

逃げ腰になったフリットを引き留まらせるようにウルフは両手で彼女の両手を捕らえた。両手を外側からウルフの両手に包まれるようにして力強く握られると、フリットは頤を引いた。
ウルフからの視線が痛いというよりも熱すぎる。一種の脅迫概念でもあったが、そうではないなとフリットは感じた。あのまま会話を切ってしまえば引き摺るだろうとした予測の上で質してきたと思う。
出来ればもう少し違ったことを訊いて欲しかったものだがと、フリットは戸惑う身体の熱の冷まし方が解らないままに瞼を震わせた。

「………き」

殆ど聞こえなかっただろう。だが、ウルフから力を抜く気配があった。届いたらしいことに解放を待ったが、向こうの手が此方の肩にまわされていることに気付いてフリットは顔を上げる。
鼻先が触れ合ってからの行動は速かった。口付けを迫ってきたウルフの口を掌で受け止め塞いだフリットは彼を自分から引き剥がす。

「ば、場所を考えろ……ッ」
「周り見えてなさそうだったけど」

確かに少し周囲のことを忘れかけていたのでウルフの言にぐっと詰まったフリットであったが、多数の急激な視線の痒さは無意識でも気付く。
何かウルフに衝動的な行動を取らせてしまう要因があっただろうかと振り返るが、自分に落ち度はない気がする。前に、他者の目があるのに自分から迫ったこともあるが、あれは自らに言い聞かせる意味もあった。ウルフのはそういうのでは無さそうであったし、ここまで視線が多いのは気が引ける。自分のことを棚に上げすぎだろうか。

考え中のフリットに肩透かしを食らったウルフは彼女から手を離す。と、ふいにフリットが見つめ返してきた。

「そういうのは、二人きりの時だけにしてくれ」

手を離しておくべきではなかったと思うも、それは遅く。フリットは翻るように室内から出て行った。
元の椅子に腰を下ろしたウルフはテーブルに突っ伏した。不意打ちだ。
我が儘というか、お願いというか。ねだりの含まれた声と潤んだ瞳で困り顔をされればどうしようもない。

「ウルフ。お前なぁ、あれはやり過ぎだ」

呆れ声と共に注意する声が向かい側からあった。
顔を上げ始めたウルフを見遣ったラーガンは周囲の話題が統一されていく流れを感じ取って肩を落とす。悪い方向ではないにせよ、限度というものはあるはずだ。

「しょーがねぇだろ」

テーブル上に片肘を乗せて横を向いたウルフはぼそりとそのまま続ける。

「あんなに可愛いとは思ってなかったんだよ……ッ」
「は?」

向かいの反応に横目を一度向けて戻したウルフは勝手に言っていろと無言の後に、ラーガンの制止の声には耳を貸さずに席を立った。
案の定、仲間内に絡まれ始めたウルフを遠目にラーガンは肩で一呼吸。と、そこへ人の気配を感じてラーガンはやや後ろを振り返り見上げた。

「隣、良いかしら?」
「ええ、それは」

少し声が上擦ってしまったのを内心後悔するが、そんな様子のラーガンを気にせず、ビッグリング基地に滞在待機させている戦艦ディーヴァの艦長を務めているミレースは彼の横席に腰を下ろした。

此処は待機室としての役割もあるため、パイロットが多く利用する場の一つだ。
指揮権を持つ上官が姿を現せば緊張が奔るが、それとは別の緊張を持ってラーガンがミレースへ目配せすれば、彼女の視線は彼を通り越した向こうにあった。

「司令とはあまり、気が合うようなタイプには見えないわね」
「中佐の耳にも入っていますか?」
「まさかとは思ったけど。通路で司令と出会したのよ、さっき」
「ああ」

成る程とラーガンは相槌を打つ。自分も最初は愕きが勝っていた。ミレースも同様に信じられない気持ちがあるのだろう。

「表情が乏しいわけじゃないんだけど、昔から何事にも動じない子だったから」

フリットとは“ノーラ”がまだ存在していた時からの付き合いであるミレースは思い返しながら言う。

「珍しいですか?」
「珍しいのもあるけど、嬉しい、のかもしれないわ」

目元を綻ばせたミレースからラーガンは視線を逸らした。不自然さを誤魔化そうとバイザーの手入れをするふりをする。

「白い狼の話はそこそこ聞いたことあるわ。でも、人となりは知らないのよ。中尉から見て、どうかしら?」
「悪い奴ではないですよ。自我が強いですが、言動の筋は通ってますからね」
「それなら、やっぱり心配いらないようね。馬に蹴られたくないし」
「そうですね。結婚の話も出ていますから」
「え」

……初耳だったらしい。












多忙である母と久方ぶりに食卓を囲み、片付けを終えて自室に戻ろうとアセムとユノアはリビングを出て行こうとした。

「アセム、ユノア。少し、話があるんだ」

フリットの申し出に二人は素直にテーブルに戻る。いつもの定位置で、横並びに座った子供達の視線を受け取ったフリットは呼吸を二つ。

「明日、来客があるんだ。二人にも会って欲しい」
「軍の人?」

アセムの問い掛けにフリットは少し迷ってから曖昧に頷いた。そのことに兄妹は互いの顔を見合わせて首を傾げる。

「軍人ではあるが、会って欲しい理由はそれと関係ないんだが……」

歯切れが悪くなってきたと自覚したフリットは早めに言わなければと、意を決して本題に入ることにした。

「母さん、結婚してもいいか?」

豆鉄砲を食らったような顔の子供達を目の当たりにしてフリットは脈絡がなさ過ぎたことに気付く。どうしたものかと、思考を回し始めたフリットであったが、アセムが気を取り直したのが先だった。

「結婚したい相手が明日来るってこと?」
「そ、そうだ」
「俺は構わないけど」

アセムがユノアに目配せする。すれば、呆けていたユノアもこくこくと何度も頷いて承諾の返事をした。
子供達の様子にフリットは安堵して肩から力を解く。しかし、好奇心の強いユノアが身を乗り出す勢いで質問してくる。

「ねぇねぇ、どんな人?お母さんより年上?軍人さんなんだよね?」
「私より年下だ。どんな人かと言われると、答えにくいな」

想像を膨らませているユノアに苦笑を零してから、フリットはアセムを窺った。どことなく、賛成しきっている雰囲気ではなさそうだと感じ取る。
会ってみなくては判断が付かないというものかもしれない。

「明日はクラブがあるから遅くなると思うんだけど」

休日ではあるが、モビルスーツクラブの大会が近いために先月から休日のクラブ活動にもアセムは励んでいる。

「そうだったな。顔合わせだけと向こうにも伝えてあるから、夕食を一緒にと思ったんだ」

泊まるわけではないらしいとアセムは落ち着いてフリットからの言葉を聞いて、明日の約束をしてユノアと共にリビングから二階にあがった。

昔は一つの部屋を兄妹で使っていたが、その子供部屋は今は思い出の品を遺しておく置き部屋となっている。一人ずつに部屋を与えられてからは一人の時間が増えたが、世間から見ても仲の良い兄妹は互いの部屋に入ることを嫌がったりしなかった。

「お父さんができるってことだよね?」

兄のベッドの上で母と共に帰ってきているハロを抱えたユノアはぽつりとそう零した。

「でも結婚するのは確定じゃないだろ?」

課題を広げた勉強机に向かっていたアセムが椅子を横に回してユノアに向き合った。
小さくもない子供を二人抱えているという事実は母の重みだ。申し訳なくも思うが、結婚に自由はあっても、環境に自由はない。
勝手気ままな親であれば子供を顧みないことも考えられるが、自分達の母はそうではないことを重々承知だ。だからこそ、会ってみて欲しいと承諾の権利を委ねてくれた。

「そうだけど、格好良い人がいいな。友達に自慢出来るもん」

楽観的な妹にアセムは微笑する。ユノアはある意味家族の中での緩衝材だ。この天真爛漫さが有り難いと感じたのは一度や二度ではない。

「ユノアはあんまり驚いてないな」
「え?驚いてるよ、すっごく。お母さんって恋愛には興味無さそうだもん」
「そうだよな」

あれやこれやと話が尽きそうになかったが、課題が残っているという兄に頷いてユノアはハロを置いて隣の自室に向かった。












呼び鈴の音に電気コンロを止めたフリットは壁掛け時計を見遣り時間を確認した。予定より早いことに苦笑を交えながら、お気に入りの水色のチュニックを選んでソファの上でそわそわしているユノアに彼だと思うと一言言い置いてリビングの扉と隣接している玄関に足を運ぶ。
インターフォンで姿を確かめたフリットは玄関を開放した。

内側からは押しドアになっている。一歩下がった来客はフリットのエプロン姿に驚きを瞬きで顕した。

「早いな。ユノアはいるが、アセムはまだ帰ってきてないんだ。………どうした?」
「軍服以外は見たことねぇから」
「私もお前の私服姿は、初めて見る」

ウルフはシャツとジーンズの上にボリュームネックのジャケットを羽織り、柄の入ったストールを首回りに飾っている。対して、フリットは黒シャツにスキニーと無地で味気ないものだ。玄関の内側に招き入れながら、フリットはウルフの服装の若さに視線を外す。
そんな様子のフリットにウルフは口を開きかけるが、一回り小さい視線に気付いてそちらに目を向けた。

リビングの扉を開けた隙間から顔を覗かせているユノアをフリットが呼ぶ。ハロが先に転がり出てきたのを追いかけるようにユノアはウルフの目の前に出てきた。
第一印象は瞳の色が似ているというものだ。フリットの娘なんだなと感じ得ながら、ウルフは右手を差し出した。

「ウルフ・エニアクルだ。宜しくな、可愛いお嬢さん」

ウインクを受け取ったユノアは顔を赤くして、慌てて握手を返した。

「ュ……ユノア、です」

アセムより人見知りの少ないユノアの緊張振りに、前日ではなくもっと早めに伝えておくべきだったかもしれないとフリットは思い至る。内心では、はらはらした面持ちで二人の様子を見守っていた。

「呼び捨てでもいいか?」
「はいっ」
「ユノアは元気がいいな」
「取り柄ですから!あ!私、お兄ちゃんに来たよって言ってくる!」

玄関を飛び出して行ったユノアをハロが飛び跳ねついていった。なかなかの慌ただしさに微笑ましくなる。

「お前も昔はあんなんだったのか?」
「いや、どうだろうな。エミリーに似たような気がする。私の代わりによく面倒を見ていてくれたからな。それに、お前を此処まで車で運んでくれたバルガスは彼女の祖父だ」
「家族ぐるみの付き合いってやつか」
「ああ。前にいたコロニーの軍基地司令が私の後見人になってくれていたが、その人が亡くなってからはバルガスに世話になった」

保護者のいない未成年は施設送りになる。娘が巣立っているバルガスにとってフリットを引き取るのは苦ではなかった。手間の掛かる幾つかの手続きを笑ってこなしてくれたバルガスにフリットは感謝している。けれど。

「私の許可無しにモビルスーツの機動テストをしなければ文句はないんだが」

昔からそれだけは何度言っても直してくれない。軍基地内の倉庫の壁やシャッターが凹んでいるのは彼の仕業だ。
現在は軍の仕事より近辺の知り合いから請け負う修理業が中心になりつつあるので、言うほど手を煩わせているわけでもなかった。

「車中で話したが、かなりボケが進んでたぞ」
「最近な。腕は確かだから、そこだけは信用してくれ」

ウルフをリビングまで通し、子供達が帰ってくるまで寛いでいてくれとフリットはソファを指す。けれど、ウルフは我慢の限界だった。












モビルスーツクラブが使用している倉庫に全速力で走ってきたユノアはロマリーから冷たい水を貰って、一気にコップの中を飲み干した。

「お兄ちゃん!来たよ!」

作業着姿でプチモビの整備をしていたアセムは妹の大声に顔をあげた。微妙な顔のアセムを横にいたゼハートが首を傾げながら見遣る。

「すっごいイケメン!」

アセムは転けた。

取りあえず、興奮気味のユノアに水をもう一杯与えて落ち着かせる。流石に作業どころではなくなってしまったので、モビルスーツクラブの全員で休憩に入ることにした。

「アセムのお母さん、結婚するの?」

皆が驚いているが、ロマリーが全員の声を代弁する。

「するかどうかは俺達の反応を見てからってみたいだけど、まぁ、そういうこと」

同級生の親というのは間接的な知り合いという距離感だが、アセムの母親は連邦軍の総司令官として著名でもある。
浮いた話など皆無であったのにと言いたげな皆の空気にアセムはどうしたものかといった仕草で頭を掻く。

「イケメンだし、すごく若かったよ!歳聞きそびれちゃったけど、二十五ぐらいじゃないかな?」
「………俺とユノアの方が歳近いじゃないか」

アセムの肩をシャーウィーとマシルが両側から支える。友人であるアセムには悪いが、他人事として見る分には好奇心が勝る。年下が相手である時点で意外だからだ。しっかりしている人ほど駄目な人を好きになる法則も世の中には存在するが、アセムの母親はそこに当てはまるだろうか。

「俺達も会ってみたいよな」
「賛成。また書斎見せてもらおうよ」
「やめてくれよ」

大人数で押しかけるなんて心身が持ちそうにない。アセムがシャーウィーとマシルの相手をしている間、ゼハートは所在なげに雑誌を開いていた。

「でも、なんか見覚えがあるような気がするんだよね」
「会ったことあるの?」
「うーん」

悩み出したユノアはゼハートが次に捲ったページに目を瞠った。

「これ!この人!」

全員の視線が集中してゼハートは驚き固まる。彼を中心にして周りを囲んだアセム達は雑誌に視線を落とす。MS関係の雑誌を何冊か部室の倉庫にストックしているが、この雑誌は三年前のもので先輩の誰かが置いていった品だ。
件のページにはモビルスポーツ関連の特集が掲載されている。

「ウルフ・エニアクルってあのグランプリ総嘗めの?」
「名前も一字一句同じ」
『ウルフ!ウルフ!』

ビッグリングでフリットのサポートをしているハロが反応して連呼した。それから暫く沈黙が続く。

「やっぱりアセムの家に行こう!」

立ち上がったシャーウィーをアセムは座らせる。

「まだこの人だって決まったわけじゃないだろ?」
「ユノアちゃんはもう会ったって言ってるじゃないか」
「絶対この人だよ」

頷くユノアにアセムは眉を歪める。雑誌のプロフィールが確かなら、ウルフは今、二十三という歳だ。母であるフリットと十六の差がある。
どういった経緯でこんなことになったのか。途方に暮れそうな頭を下げないようにするのがアセムの精一杯だった。

「お食事をお持ちしました」

サークル円を組んでいる部員達に声が掛かった。フラムはロマリーと同じ制服姿で大きなバスケットを一つ抱えている。

「有り難う、フラム。重かったでしょ」
「水筒とペットボトルを人数分持って行ったロマリーの方が重労働だったと思うわ」

お互い様、とフラムは首を横に振る。
昼時は過ぎているが、小腹が空いている頃だろうとおやつ代わりのサンドイッチをロマリーとフラムは用意していた。下ごしらえは二人でやり、仕上げがフラムの担当、飲み物を先に運ぶのがロマリーの役目だった。来週は互いの役割を交代する。

「みんな、サンドイッチを食べるのが先よ」

無駄になったら困るからとロマリーに言われてしまえば、シャーウィーも押し黙るしかない。

「ユノアも遠慮せずに食べてね」
「ロマリーさんとフラムさんのサンドイッチ食べるの久し振り!有り難う御座います!」

七人でバスケットの中を分け、途中参加のフラムにも通じるように話を最初から戻し、サイドイッチが無くなる頃にはフラムも大まかな流れを理解した。

全員で家に向かうことを最後まで渋っていたアセムだが、ユノアが不安な様子を見せ始めたことに四の五の言っていられないと重い腰を上げた。会うことは承諾したのだ。今更前言撤回をするつもりはなかった。
それでも、足の重さを感じながら一番後ろを歩く。

「アセム、大丈夫か?」

顔色が優れていないとゼハートが心配を覗かせる。

「ああ、うん。平気」
「とてもそうには見えないが」

両親の存在が遠いゼハートには想像に及ぶのも一苦労であるが、育ての親であるイゼルカントがもうひとり妻を召しとることになったとしたら驚き以上のものがある。そういう感じだろうというニュアンスの域から出られず、やはりアセムの気持ちを慮るのは難しかった。

「父親が出来るのが不安か?」
「そう………かな」

曖昧なアセムにゼハートはあまり聞き込まない方が彼のためだろうと、同じ速度で横に並ぶことを選んだ。
家までの距離が僅かになったところでアセムはゼハートの顔を見ずに零し始めた。

「早ければ来年卒業したらすぐ就職とかになるから、父親が出来るのはあまり関係ないんだ」

語りかけるのとは違う口調に、ゼハートは無言のままでいることにした。

「ゼハートにも前に少し話したと思うけど、俺とユノアの父親解らないからさ。もしも、二人の間に子供が出来たらって考え始めたら、全然答えが出なくて」

好意のない相手との間。好意のある相手との間。その歴然の差は埋まるものなのだろうか。
深いところで悩んでいるアセムにゼハートは冷静にだが、柔らかい声で言った。

「……俺はお前から母親を信じていると聞いたぞ」

今から五年前。
アセムとユノアは自分達の出自を知ることになった。通っている学園の生徒の親が軍関係者と知人で、そこから学園内外へ広がってしまった。

当たり障り無い噂ならあそこまで広がらなかっただろう。けれど、ゴシップの類が表に出ないことで有名な母が関わっているとなれば、信憑性とは関係無しに飛躍した。
アセムとユノアは疑心暗鬼のまま学園に通い続けたが、見かねた教師がフリットを呼び出して事の真相を問い質したのだ。アセムとユノアもその場に通されたが、教師の数よりも他生徒の保護者が多く、処刑場のような印象を受けた。

母はやっていないと、そう思ってきたアセムとユノアはフリットの語った言葉に悔し涙を堪えた。懺悔する態度は一切無く、正々堂々としていた姿は今でも覚えている。その場にいた全員を黙らせるほどだった。
それでも、裏切られたとアセムは感じた。

帰り道、アセムはユノアの手を引いて母の後ろを追いかけ歩いた。それが子供の義務だった。
ふいに、フリットが立ち止まり、ユノアが泣き出した。振り返ったフリットがしゃがみ込み、視線の高さを同じにする。手を伸ばしかけ、下ろしたフリットは俯いた。

「母さん」

アセムの声にフリットは顔を上げた。誰もを黙らせた覇気はそこになかった。それでも、酷く優しい顔だった。

「すまない。私がしっかりしていなかったんだ。後はもう学園側の判断に従うだけだ。……転校になるかもしれない。解ってくれるか?」

首を横に振ったのはユノアだった。転校という言葉に反応してのことではない。あの場での話も半分理解しているかも怪しい。ただ、感受性が強い時期だからこそ、肯定への反発が剥き出しになっている。
ぐずるユノアの背中をアセムが撫でる。ひっくひっくと呼吸が整っていないが、顔を自分で拭って泣き声を止めようとしていた。母を困らせてはいけないと、ユノアが思った上でのことだった。

眉を下げたフリットはユノアから隣のアセムに視線を流した。顔ごと目を逸らされてしまったことにフリットは自分がしでかしたことを苦く思った。

「いつか……いつかは、言わなければと思っていた」

声が震えているフリットにアセムは耳を、傾けた。

「母さん、とても焦っていたんだ。早く戦争を終えるために早く戦争しないとって。そのために必要なものがあった」

隣にはユノアもいる。直接的以外の物言いにまで頭が回らないアセムは黙っていた。あの場で何度も耳にした単語がざらつく。

「それで、不特定多数の男の人と関係を持ってしまった」
「間違ったことだったって、思ってる?」
「思っている」
「俺達の」
「それは違う」

ことも?という続きは遮られた。強く。

「私は……いや、僕はアセムとユノアを授かったことを悔やんでいない」

二人が存在しない世界は考えられないのだと、母の瞳が強く語る。

最初は戸惑った。避妊には気を配っていたから。けれど、命が此処にあるのならばと、決断は早かった。特殊機関からXラウンダーの人工複製をしたいという要請も全て断り振り切った。手放したくなんてなかった。

「母親になる資格は、僕にはなかったと思う。けど、アセムとユノアがくれた時間は掛け替えのないものになった」

いつの間にか、ユノアの涙は止まっていた。

「お前達は僕を批難していい」

アセムは動こうとせず。ユノアは首を横に振ると、フリットに抱きついた。
抱き留め、震える小さな身体をフリットは抱きしめる。

「僕がしたことは決して綺麗なものじゃない。二人にも嫌な思いをさせてしまった。良い親になるって、難しいな」

少女の最期の言葉と重なり、フリットは胸の痛みを覚える。
そんな苦しい世界を救い、安らぎのある世界へ変えてみせると誓った自分がこの有様だ。あの子が生きられたはずの世界はまだとても遠い。

一呼吸置いたフリットはユノアの頭を撫でながら、ずっと抱いている気持ちを露呈する。

「アセムとユノアがどんなことを言ったり、どんなことをしても、僕は二人の味方だ」

無償の信頼に心が揺れないわけがなかった。裏切られたのではないという真実が、アセムを前に進ませてくれた。
それでも、暫くは母と距離を置く態度を取ってしまったのだが、エミリーが取りなしてくれて、気づけばいつも通りになっていた。転校の話も出ず、学園でもあの噂を一切耳にすることなく過ごし続けた。

学園のことは当時は気に留めていなかったが、母が裏で手を回したんだろうと予想に難くない。手段としてはどうだろうと思いはある。けれど、感情あることが前提だと解っているからこそ、家族だからこそだった。

整理はとっくにつけて、母が信じてくれるのなら自分も信じ返すべきだからと、アセムは語っていた。
寂しそうな横顔を間近にして、ゼハートはまだ何か彼の中で整理がついていないように感じたことを思い出す。その時のアセムの言葉に嘘はなかった。だが、親と子でも別の生き物には変わりなく、相容れないことだってあるだろう。
それを繋ぎ止めるのが情である。地球圏のコロニーに来てから得たゼハートの持論だった。

血の繋がりを重要視するのが地球圏の人々の歴史であるのはゼハートも理解を示している。けれど、血縁そのものを深めるのは別の何かではないか。
アセムが言う、信じるというその想いこそが大切であり、優しさに溢れている。

「信じられなくなったのか?」
「そうじゃない」

すぐに否定したアセムにゼハートは微笑する。彼はそれでいい。そのままでいて欲しいと、ゼハートは思い続ける。

自宅の前に到着し、不安の残っているアセムの肩をゼハートは軽く叩いた。安心させようとしてくれているゼハートに感謝の言葉を言うのは気恥ずかしく、苦笑で返事とした。
家人ではない者が先に入るわけにはいかない。ユノアはロマリーと話が弾んでいるようであり、アセムがシャーウィーとマシルを後ろに引き連れて玄関を潜った。ゼハートとフラムは火星圏出身からか、外で待つことを選んだ。












夕食の下準備が途中だからと、一度は解放されたフリットであったが、程なくして下準備を終えてしまう。所在なげにキッチンに突っ立っていれば、背後から抱き竦められた。

「危ないだろ」
「手に何も持ってねぇけど」

包丁などの調理具は片付けてしまっていた。反論出来ず、フリットは押し黙る。

「終わったなら、続き」
「子供達が帰ってくる」
「キスだけなら良いんだろ?」

そう言いつけておいたのに、意味を持った手で触れてきたのは何処の誰だったか。そう込めて、振り仰ぎ睨む。 しかし、大した効果はなく、ウルフは頬をすり寄せてきた。

「人妻に手ぇ出してるみたいで興奮するぜ」
「私は、」
「解ってるって。雰囲気の喩えだ」

耳裏を舐められ、甘噛みされる。思わずか細い声が上擦ってしまい、フリットは視線を横に流した。

「そういう、のはっ」
「こっち向いてくれなけりゃあ、出来ないだろ」

腕を緩めたウルフに従うのは癪な気持ちもあったが、フリットは彼と正面を向き合わせた。
此方の胸元に身を寄せて手を添えるフリットを見下ろせば、密着した部分にエプロンの布皺が寄っている。いけないことをしている気分だと、ウルフは喉を鳴らす。

早々に動かないウルフに戸惑いの顔を上にすれば、彼のそれが降りてくるところでフリットは目を閉じた。
唇の厚さを押しつけ合うようなものから、だんだんと熱のこもったものへと重ね深まっていく。
吸われる音と唾液の擦れる音が耳朶を擽り、熱が頬に集中する。唇を内側に隠すように閉じ結んだフリットからウルフは一端剥がれる。
嫌がっているような顔には見えず、額をくっつけた。

「のらねぇ?」
「どうすればいいか、分からない」

気分の問題ではなかった。自宅で過ごす頻度は少ないのだが、このような寛ぐ環境が整っている場所でしても良いことかどうかに悩んでいる。

フリットから身を剥がしたウルフは彼女の腕を引っ掴んで室内を移動する。突然の行動に驚き惑うまま、フリットは生成色のソファ上に押し倒された。
目を白黒させていたフリットはソファが軋む音に気を取り戻して、眉を立ててウルフへと視線を刺す。しかし、恥ずかしさに頬を染め上げていては怖くもない。
柔らかい頬を撫で、その手で首筋を辿り下がり、鎖骨よりも下に行く手にフリットが息を呑む。

「ッ………」

待つように躾ける前に、胸の膨らみを円を描くように撫で包まれた。心臓の音が煩くて口答え出来ずにいるフリットにウルフは笑みを浮かべる。

「こういうの、してみたかったんじゃねぇか?」
「そんなわけが」

顔を逸らし、伏せ目がちに向こうを睨むフリットは自由のある両手で抵抗をしてこない。引き剥がす猶予は残しているのだから、口だけだろう。

「この間から生意気だよな」
「それはお前のほう、だ」

頤と首の付け根を舐められ、フリットの身体が緊張する。胸に触れ置かれていた手は指に力を入れて意図的に揉んできてもいる。
してみたかったのではないかと指摘されてフリットは困惑していた。正直なところ、胸奥が昂ぶっている。変な場所でウルフに抱かれ続けているとはいえ、感覚は鈍っていないと思いたいのに。リビングという場所ではいけない。いけないのに、煽られる。

「駄目……私の部屋は、二階にあるから」
「上にあがるまで保たねぇ。興奮しきっちまって」
「駄目だ、我慢、しろ」
「お前こそ、大人しく喰われろ」

服上から身体中をまさぐられ、唇を重ねられる。重ねが解かれて、ぼんやりとした目に時計が映り、フリットは瞬く。ユノアが出て行ってから一時間は経っている。クラブ活動も今の時間には終わる頃だ。

「ウルフ……!」

肩を押してくるフリットにウルフは怪訝な顔をした。かなり互いに身体が熱を持ち始めている。これからだろと身を寄せれば、フリットは逃げるようにソファ上で背を向けた。

「二人が帰ってくるから、駄目だ」
「我慢出来るかよ。一発ヤらせろ」
「お前、言い方を」
「選んでられるか。お前に触れられるの、今だけなんだろうし」
「それ、は」

子供達にとっては見ず知らずの人間だ。長期的に会う時間を少しずつ伸ばしていくのが良いだろうと子を持つディケからアドバイスをもらっていたフリットはウルフにもその了承を得た。
今日は夕食時だけとして、ウルフにはその後トルディア軍基地の宿泊施設を使用してもらうか、そのままビッグリングの方に戻るかの選択だけ。此処に泊まらせるのは、次回以降だ。
フリットが懐に入れた人間を簡単には無下に出来ないと知り得るくらいの付き合いになっているウルフはそこに付け込む。

「それでも、私だって明日の夜になったらビッグリングに向かうんだぞ」

そう言うだろうとは思っていた。そもそも、自分とてこんなつもりではなかった。けれど、不可抗力だ。

「向こうじゃエプロンしないだろ」
「えぷろん?」

混乱しているフリットに深く考えなくてもいいと上に乗っかり、逃さない。エプロンの隙間から手を差し入れ、程よい柔らかさの膨らみを掌で愉しむ。

「……ん、だめ」
「ただいま」
「………」
「…………」

耳をウルフに舐められていてリビングの扉が開く音に気付けなかった。いや、それ以前に人の気配を感じ取れなかったことが由々しい。

「…………おかえり」

やっとのことで、フリットがそう言った途端。アセムはその場から走り出て行った。

「ッ!、アセム!!」

ウルフを引き剥がし退かしたフリットはソファから身を立て直した。アセムと一緒に来ていたシャーウィーとマシルの横を通り過ぎ、開け放たれた玄関を出て息子を追いかけようとする。けれど、肩を掴まれて後ろに引かれた。

「さっきのは俺が悪い。フリットは待っててやれ」
「そういうわけにはいかない」

自分はあの子の母親だと強く宣言される。頼もしく映るが、これは子供にとって肩身が狭いなとウルフは感じた。

「待ってろ」
「私に命令するな」

睨み付けられ、ウルフは肩を竦ませる。命令などではない。
母親は背負うのではなく、受け止める存在だ。家庭によって違うだろうが、フリットはもう全部を背負わなくても良い時期だ。自分がいるのだから。

ウルフは持ち上げた手をフリットの頭に乗せた。撫でられる動きに引かれて俯かされたフリットに言葉が落ちる。

「ユノアと一緒に飯温めてりゃ良いんだよ」

玄関先から此方を心配そうに覗き込んでいるユノアを目に入れたウルフは言う。けれど、それでフリットが納得を見せるわけではなかった。

「私もアセムを」
「何度も言わせんな。悪いのは俺なんだから、格好付けさせろ」

手を離したウルフは自身の頭を掻く。

「俺の目的はお前の餓鬼共に認めてもらうことだ。格好悪いまま帰れねぇ」
「それはお前の都合であって」
「ああ、俺の都合だ」

一点の曇りもなく肯定したウルフに意外を持って二の句が告げなくなったフリットであったが、こういう男だったと次には頷く。
冷静になって、自分がアセムを探し出したとして、ウルフに会わせるための言葉や説得は難しいと考えが及んだ。

「……一時間だ。それを過ぎるようなら私も探しに行く」
「充分だ」

話がまとまったらしいことにユノアが出てくれば、ウルフは少女の背を叩いて母親と待っているように言う。

「土地勘ねぇから、そこの坊主達に道案内頼むぜ」

ソファの背もたれに引っかけていたアウター類を取り羽織ると、少し背の高い少年と小柄で眼鏡の少年の首根っこを掴んでウルフは玄関の外に出た。
そこに作業着姿の少年一人と制服姿の少女二人がいて、この三人もフリットの息子の同級生と知る。
不安そうな雰囲気を持っているので、一緒に探しに行くかと問えば、各々が戸惑い気味に頷いた。

エンジン音がしたのが厄介だとの思いはあるが、最終手段としてはタクシーなりレンタルカーを呼ぶしかないだろう。友人がこれだけいて誰一人として追いかけられなかったのはバイクという移動手段を取られたからだ。車でないことは彼らの証言から判明している。

まずは学校に向かってみるということになり、道案内のままに進んでいく。視線がずっと突き刺さっており、ウルフは溜息を吐くと其方に目をやった。
シャーウィーとマシルがパッと顔を外側に向けたが、誤魔化せるものではない。半目を置いた後にウルフは口を開いた。

「言いたいことがあるなら言え」
「え、あ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「ウルフ・エニアクルって、あのウルフ・エニアクルですか?」

質問がおかしいが、意味は通じる。

「そうだ。お前らが言うウルフ・エニアクルがレーサーから軍人に転身した男で間違いないならな」

おお、と。その場限りの感動にウルフは息を吐き出す。
見世物になったり、させられたりするのは慣れている。ただ、まだ質問が有りそうだ。

「あの、どうしてアセムのお母さんとそういうことに?」
「良い女だったから」

あっけらかんとした答えにウルフ以外の足が止まった。道案内が足を止めてはウルフも立ち止まるしかない。

「それ以外に何がある」

首を傾ければ、いやぁと誰もが視線を合わせようとしない。
言いたいことは分かるとウルフは頤をしゃくって先に進む。校舎が遠目に見えているので迷うことはないだろうが、慌ててシャーウィー達が追いかける。

「人のもんじゃねぇんだ。欲しがって何か悪いことあるか?」

区切られたかと思われた話を当の本人が語り出した。アセムの母が自ら進んでということではないらしい。シャーウィーとマシルはウルフにのし掛かられているフリットをアセムの後ろから目にしてしまっていた。それを思い出して二人の顔は赤くなる。

「まあ、アセムのお母さんは旦那さんいませんけど」

マシルがそう言い、ロマリーが会話に加わる。

「勿体ないってうちのお父さんとお母さんが良い人紹介しようとして、全部失敗してたなぁ。最近は料理の出来る男の人も多いって勧めてたっけ」
「ご本人は人並み程度に料理が出来るとおっしゃっていたけれど」

フラムがそう続けたことはゼハートには意外で、驚いた顔を見せる。それにどう説明しようかフラムが言葉を探していると、ロマリーが補足する。

「前にチョコレートのお菓子、みんなにあげたでしょ。あれのレシピ教えてもらったの」

季節的な定番行事にチョコレート類を贈るものがある。ロマリーの母親は外せない用事があって頼めず、フラムと共に材料だけでも先に調達しようと買い物に出掛けてそこでたまたま此方に帰宅中のフリットと出会した。二人でお願いしてみれば、菓子類はエミリーの手伝いくらいでしか作ったことがないけれど、それで良ければと快く引き受けてもらえた。

「すごい真面目に取り組んでくれて、アセムのお母さんらしいよね」

おかげで予定していたもの以上に本格的になった。

「それは才能の無駄遣いじゃないのか」
「私もそう思っていました。ゼハート様」

フリットも首を傾げていたので、どうやら集中してしまうと周囲の期待を越えてしまう質らしい。やけにレシピ本を読み込んで、その通りにやっただけと言っていたが、完璧主義の度が越えていた。
初めて作るものだから徹底的にやってしまったらしく、あまり料理は頻繁にしないから比較的失敗の少ないパスタやシチューぐらいしか作らないし作れないと言っていたが、やろうと思えば豪華料理も出来るのではないだろうか。そうであれば、料理上手の男は彼女にとって好物件とは言えない。知人回りもしっかりした者が多く、客観的に見て主夫が必要とも思えなかった。

「それなりに馴染んでるんだな」

独り言でウルフは呟く。フリットの家は大きさの割りに敷地が広く、隣家と距離があった。近所付き合いの類を避けているのかと思ったが、そういうわけでもないのだろう。もしかしたら、モビルスーツの一機ぐらい隠し置いているのかもしれない。

学園に辿り着き、クラブで使っている倉庫や中庭を見て回る。しかし、アセムの姿はない。此処にいるものとばかり思っていたロマリー達の顔に不安が色濃くなる。

「結構しっかり造り込んであるな」
「少し、宜しいですか?」

倉庫に鎮座されているプチモビを覗き込んで誰も乗っていないのを確認していたウルフの横にゼハートが話し掛ける。

「何だ?」
「貴方に言って良いことか……そもそも、俺が言っても良いことか迷ったんですが」

アセムのことに関することだと、ゼハートは続ける。家を走り出て行った要因に繋がることをウルフは聞き終え、成る程とプチモビに背を預けた。

「理解はした。それと、お前もあんまり心配しなくていいぞ、それ」
「どういうことですか?」
「子供は、出来ねぇよ」

再度、問い掛けようとしたが、ゼハートは口を閉じた。それ以上言葉を続けられる空気をウルフが遮断したからだ。

校内も一通り見て回り、残っている教師に少し内容を濁らせながらアセムの姿を見ていないか聞いて回った。しかし、収穫はなかった。
コロニーが吸収する太陽光の明かりが弱まっていき、次第に暗くなる。







ウルフ達がアセムを探しに出て行ってから、時計の長針が百八十度動いていた。時計を何度も見ていたフリットは椅子から立ち上がって玄関に向かおうとする。

「まだ一時間経ってないよ」

眉を下げたユノアに指摘され、フリットは足を止める。足下を転がるハロも心なしか寂しげな動きだ。

「私も探してくる」
「待って。お母さん、聞いてほしいことがあるの」

行こうとしたフリットの裾を掴んでユノアは引き止めた。
振り返り見た娘は言葉を言い倦ねいているようで、フリットは自分が取り乱してはいけないと呼吸を整える。
テーブルを置いた椅子に座り直し、フリットは温かい紅茶をカップに注いでユノアの前に置いた。

「あのね」
「うん」
「お兄ちゃんがゼハートさんに話してるの、聞こえちゃったの」

内緒話というものではなかった。だから此処で今、母に伝えているのだが、やはり気後れは感じた。
それに、自分もそれを耳にして、考えてしまったのだ。

「お母さんが子供産んだらどうしようって」

娘の不安な声にフリットはテーブルを支えに組んだ両手に額を乗せた。それを心配してアセムは家出という行動に出てしまったのだと知ってフリットは悔いた。あの時に、そのことも話すべきであったかもしれない。けれど、まだ二人は幼いからと話さずにいたのだ。
時期としてはもう充分だと、フリットは決意した。ウルフには話して、子供達に話さないのは道理でない。







学園を出て、通りすがる近辺の住人にバイクに跨がった少年を見ていないか尋ね歩けば、二人目でそれらしい情報が得られた。
学園からさほど遠くない公園近くで見掛けたという話から、そこに向かえば、バイクを公園の空いているスペースに置き、ブランコをベンチ代わりにしている少年がいた。
ロマリーとシャーウィーが駆け寄っていこうとするのをウルフが制する。

「お前らも親が心配してるだろ」
「でも」
「説得は俺の役目だ。聞きたいことがあるなら、明日アイツ本人に根掘り葉掘り訊けばいい」

言い諭すのではなく、茶化しを入れてくるウルフにロマリー達は顔を見合わせて迷う。その中でゼハートが一番にその場から踵を返し、皆がそれに続いた。
あの中では長髪の彼が一番大人びていたなという印象を残し、ウルフは土手を降りる階段へと足を一歩進めた。

人工芝を踏む音に顔を上げたアセムは予想に反した人間がそこにいて眉を歪めた。

「母親じゃなくて悪いな」
「何か用ですか?」
「フリットとユノアが心配してるぞ。お友達もな」

想像に難くないのだろう。反省の色がある表情にウルフは苦笑を交える。アセムが飛び出して行った時のフリットの顔色は見たことがないほど悪かった。こんなことは今までになかったであろう。つまり、彼にとっても初めてのことだ。

「なあ、お前は俺に何か言うことないのか?」
「初対面の人に質問なんて」
「母親が取られるのが嫌って気持ちは分からなくもねぇぞ」
「そういうのじゃ……」

目を逸らしたアセムに自覚はあるんだなと、ウルフは見下ろして様子を窺う。ユノアがあんな感じであったから、兄のほうもそれ程変わりないかと勝手に決めつけてしまった。此処まで繊細だとは思いも寄らなかったが、あの状況を見せてはならなかったと彼の友人であるゼハートからの提言で結びついた。

此処でフリットの代わりに自分が説明しても彼女は咎めてこないであろうが、それとは別で俺自身を此奴に認めさせなければいけない。相手の逆鱗に触れてでも。

「結婚しようがしまいが、あれはもう俺の女だ」
「そんな勝手に」
「お前は母親の意思を無視するのか?」

言葉に詰まってアセムは俯いた。自分の膝がそこにあり、のせた両の拳を強く握り込む。事実と認識したがらない自意識の逃げ場がなかった。
昨晩から母の様子は目にしたことがないものだった。横の男の言っていることが嘘ではない証拠だ。
息子として母親の幸せを優先したい。その気持ちはあるはずだった。けれど、もう自分の知っている母ではなくなってしまったようで、それが不安を煽る。

「自分が一番大事なんだな」
「そんなんじゃない……!」

立ち上がったアセムに驚くようにブランコの鎖が音を立てて跳ねた。
沈黙に、冷え込んできたなとウルフは上を見上げた。狭くて閉じている。

「自分一番を否定してどうする。男なんてもんは総じて自己中だろうが」

何なんだこの男は。と、アセムは顔を顰めた。言っていいことと言ってはいけないことの区別がままなっていないかのような無謀な発言ばかり。それなのに、言葉一つ一つが身にきつく沁みる。凶器とは違った突き刺さりをしてくる。

「だからって……それじゃあ、駄目なんだ」
「お行儀の良い育ち方しちまってるな」

一歩、また一歩と踏み出してくるウルフがアセムの眼前でその足を止める。立ち塞がった銀髪の男をアセムが見上げるより先に胸ぐらを掴まれて上に引っ張られた。
予期せず突然のことであったが、アセムは果敢に男を睨み付けた。

威勢に高評価を付けてウルフは頭突きをかました。
手を離せば、地に足をつけたアセムが蹌踉(よろ)ける。しかし、倒れることはなく、ウルフの正面に立ち向かっていった。







玄関の開く音にフリットは勢いよくリビングの扉を開け放った。

「アセム……!」
「大げさだよ、母さん」

抱きしめられ、温かさにアセムは苦笑う。後から顔を出したユノアにもアセムは笑い返す。

苦しいというアセムの主張を耳に入れてからフリットは身を剥がした。そこでアセムの顔に大きくはないが、掠り傷が幾つかあり眉を顰めた。次いで、横のウルフに視線を移せば、アセムほどではないにしても傷を作っていた。

「お前がやったのか」
「まあな」

その答えにフリットは遺憾を示す。二人で無事に帰ってきてくれたことに安堵もあったけれど、ウルフ一人に任せるべきではなかった。

力は危ないものだ。加減を間違えれば暴力になり得ると軍人ならば知って然るべき常識だ。危険を遠ざけろとまでは言わないが、それを制御して正しく使うべきであるのに、この男は後先を考えずに行動に出てばかりだ。

「お前はこの間もそうやって」
「この人のこと責めなくていいよ」
「……アセム?」

視線を落とせば、アセムは非があるのは自分だと弱々しく認めた顔を崩していた。複雑な表情の内側をフリットは受け止めて、ウルフへの諫言(かんげん)は後にした。

「ユノアにはさっき話したんだが、お前にも聞いてもらいたいことがある」

アセムはフリットに言われるがままに、リビングの自分の定位置となっている椅子に身を落ち着けた。ユノアがその隣に座り、フリットは二人の向かい側に席を置く。ウルフは扉近くのソファに掛け、家族ではないが部外者でもない位置を決め込んでいた。
気遣っている男に目を一度やった後で、フリットはアセムを真っ直ぐに見つめた。

「私はもう子供を産めない」

理解が追いついていない表情に待っていれば、次第に落ち着きを取り戻していっているようだった。

「どうしてって、訊いてもいいの?」
「古い話だからな。男の人達と私が関係を持っていたことは前に話しただろ。それで少し、壊してしまった」

少しは建て前だと、アセムは勘ぐらなくても解った。きつい伝え方にならないように緩衝させただけだ。

「治らないの?」

それにフリットは目を丸くして、次にはもう眉を下げた困り顔で柔和な表情をみせた。無理だという答えにアセムは口を引き結んでから。

「これから先、新しい薬とか出てくるかもしれないじゃないか」
「技術が発展しても、私の歳では難しい。体力があっても細胞レベルでの再生は望めないとエミリーにも言われている」
「なら、もしもの話として。可能性があるって言われたら?」

静かな間を置いて、フリットは瞼を伏せる。そして、首を横に振った。
傷付けたのは身体だけではない。子供達も傷付けてしまっているのだ。だから、これは治さない、治せない、治らない。

「あの人は……」

横目にソファの方を見遣ったアセムにフリットは頷く。

「前に伝えてある」
「そう、なんだ」

母とあの男の間に何があったのか想像すら覚束(おぼつか)ないが、深い関係にあることは確かで、アセムは息を吐く。

「私は妹が欲しかったなぁ」

ユノアの明るい声が空気を変えて、フリットは微笑する。家族が増えてもいいとする発言はウルフを歓迎していることに繋がる。
横で苦笑を零すアセムにもフリットは安堵を落ち着ける。ウルフと共に帰ってきたのだ。彼に対して拒絶があるわけではないだろう。ただ、納得出来ていないことが残っている。そのように見受けられた。

「俺は頑張ってもいいぜ」
「……遅くなってしまったが、夕食にしようか。アセムは先に汚れをシャワーで落として来なさい」
「わざとだよな、それ」

ウルフに取り合わなかったフリットは彼を一度見遣ったが、ふいっと顔ごと逸らした。ソファに押し倒したり、アセムに怪我をさせたのを根に持っているらしい。
そんなやり取りにアセムとユノアは暫し固まり、ユノアが先に肩を震わせた。

「ふふ、お母さん子供みたい」
『コドモ!コドモ!』

指摘されて、夕食の用意をし始めていたフリットは手を止めて困り顔を赤くした。娘の名前を呼んで笑わないでくれと頼み込んでもユノアのツボは抜けず、ハロと一緒にウルフの後ろに隠れる始末だ。フリットの肩身がとうとう狭くなる。

その様子を眺めていたアセムがくしゅっと、小さくくしゃみをしたのにフリットはバスルームに早く行きなさいと息子の背中を押してリビングから追い出す。その間も所在なさは抜けず、フリットはエプロンの結び目が緩んでもいないのに後ろ手にきゅっと絞った。

「子供みたいだってよ」
「私で遊ぶな」

傍らに近づいて来たウルフに頭をくしゃくしゃと撫でられてフリットは不満を表に出した。けれど、心地良さを同時に感じてしまい、先程とは意味合いの違う赤みに頬を熱くする。
何事も無く、とはいかなかったものの。今日がまた一つの始まりとなった。





























◆後書き◆

シリアスも入ってますが、これからはハートフルな路線を目指していきたいと思っております。あと、次こそはエロを。エロを入れたい。

時間も遅くなってしまったし、色々あったので、ウルフさんはこのままお泊まり。アセムはくしゃみしておりましたが、風邪をひいていないと良いですな(棒読み)。

ヴェイガンとは冷戦期か何かでやや和平寄りな感じでゼハートとフラムちゃんが普通に学校行ってます。多少スパイ感覚は持っているはずですが、学生生活満喫中。
ダズも一緒だとはいえゼハートと屋根の下は不味いということでフラムちゃんはロマリー宅にホームステイなんでないかなとか。そのあたりも次回で書き込みたい設定です。

ユノアは人当たり柔らかいけど意外とアスノ家で一番肝が据わっているかもしれないと思ったりで。
アセムは長男だから先手に回ろうと頑張るものの自己完結不足でぐるぐる。けれど、思考速度は速そうなので切っ掛けがあれば飲み込みは良いんじゃないかと。

Anfang=最初

更新日:2014/11/16








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