◆Rückwirkung-前編-◆










ビッグリング攻防戦を終えて戦艦やモビルスーツのメンテナンスに時間を取られている今、ディーヴァの艦長であるミレース・アロイは艦内の様子を見て回っている最中であった。
視線を真っ直ぐに保っていたのもあって自分にぶつかってきた誰かに気付くのが遅れてしまう。

「す、すみません」
「いいえ、此方こそごめんなさ……」

子供の声にも僅かに疑問を覚えたミレースだったが、視線を落として言葉を失った。けれど、それは相手も同じだったのか驚いた顔をしていた。

「ミレースさんですよね?」
「ええ、そうだけど。貴方、フリット?」

良く知っている相手だが、ミレースが今知っているフリットとは違った。彼は今連邦軍の総司令という役職に就いているし、子供を持つ父親という歳である。
そのはずなのだが、ミレースの確認の声に対して頷いたフリットは十四か十五歳の容姿だったのだ。

ミレースは何が起こっているのか未だに理解出来ずに困惑したままだが、フリットはやっと知っている人に会えたと安堵した表情を見せる。
そこへ、フリットを追いかけてきたであろう総司令の補佐官であるフレデリック・アルグレアスが慌てた様子でやって来る。

「司令!何処へ行くおつもりですか!?」

びくりと肩を跳ねさせたフリットはフレデリックの声から逃げるようにミレースの後ろに続く通路に逃げ込もうとしたが、再び誰かにぶつかってしまう瞬間に肩を押さえられて立ち止まった。

「危ねぇ……な?」

フリットを受け止めたのはウルフであり、彼は何で子供がこんなとこにと思ったが見覚えのある相手に疑念を持った。
そんなウルフの様子は気にせず、フリットは変わったウルフをまじまじと見上げてこう言った。

「ウルフさん、老けましたね」

ウルフはフリットの肩から手を放して少し上に持っていくと、フリットの頭を両側から思いっきり力を入れて挟み込んだ。

「痛ッ、イダダ!痛いですって!」
「で、お前はフリットか?」
「そ、そうです」

頭から遠のいた手に老けたと言ったのは流石に失礼だったかと反省しつつ、フリットはウルフの言に頷く。
そんな二人のやり取りにウルフの後に付いてきていたアセムをはじめとするウルフ隊の四人は固まり、フレデリックは彼らの近くまで来てウルフを睨む。

「司令に対して何をなさるんですか!」

けれど、フリットがフレデリックから逃げるようにウルフの後ろに隠れたことで、彼はショックを受ける。

「し、司令……」
「僕は司令なんかじゃ……ない、です」

フリットはずっと自分を追いかけてくるフレデリックに対して不信感を持っていた。だが、全く相手にしないということも出来ずに、ウルフの後ろに隠れたまま少しだけ顔を出してフレデリックに向けてそう言った。

今のフリットに現在の記憶はないらしいとウルフは理解し、状況の整理の為にフリットにいくつか質問を重ねた。
それで判ったことはフリットの記憶は見た目の年齢通りA.G.115年止まりであること。もう少し詳しく言えば蝙蝠退治戦役より数日前らしい。

起きたら見知らぬ場所にいたということで、近くにあった端末からビッグリング内に収容されているディーヴァの場所を突き止めて、そこへ向かおうと部屋を出たところでフレデリックと出会して追いかけられるはめになったそうだ。

「今のフリットと昔のフリットが入れ替わったのか?」
「少佐、冒険物語の読み過ぎです」

しかし宇宙時代でもある。地球での神隠しよりも異質な現象がニュースになったり特番が放送されることもざらであった。
けれど、リアリストが大半の軍人はそんなものを信じられるわけがない。

それでも、なってしまったものは仕様がないと腹を括って、フリットのことは彼が知っている人間がいるディーヴァで預かることになった。フレデリックはあまり納得がいかない様子を見せていたが、フリットがそれでお願いしますと言えば了承するしかなかったようだ。

アセムはウルフにハロを少しだけフリットに預けて欲しいと耳打ちされて頷くと、「すまんな」と返される。ウルフはハロを持ち上げるとフリットの側まで行ってその腕の中にハロを収めさせた。
ウルフとアセムのやり取りからハロの行方まで見送っていたアリーサはアセムの肩に下椀を乗せて顔を寄せる。

「アセムの親父も子供のときあったんだな」

それはそうだろうと返せるほどアセムはまだ冷静ではなかった。正直戸惑いの方が大きく、それを表面になかなか出すことが出来ないでいるだけだ。

「本当に……父さんなのかな?」

母親のエミリーに昔の写真画像を見せてもらったことがあるので、アセムは少年時代の父親を見たことがないわけではなかった。けれど、目の前で自分より年下になってしまった父親がいても実感が湧くはずがない。

「今の親父さんに訊いても分かんないだろうし、息子ですって言ったらそれこそ混乱させるだけじゃないか?」
「そう、だよな」

おそらく自分は今の父親に関わらない方が良いのだろうと、アセムは遠くから見ているだけに決めた。
見ているだけにしても驚くことはいくつかあって、最大の驚きはフリットがウルフを頼るような言動を取っていたことだった。

ミレースは艦長としての仕事がありフリットを側に連れていけないからと、日頃の訓練程度しかやることのないウルフに預けられている。
預けられていると言っても子守が必要な歳ではないので、基本的にはフリットがしたいようにディーヴァ艦内を移動しても良いことになっている。それでも、自分の状況を把握し出したフリットは周りの迷惑にならないようにウルフから見えない場所には行こうとしなかった。

総司令が子供に戻ってしまったと何処からか情報を仕入れた人間が何人か興味本位で近づこうとすれば、ウルフのもとへと逃げるのも何度か目にしている。
今も二人、横並びに席について食事を摂っているのをアセムは向かいの席から眺めていた。

父親と今ばかりは距離を置かなければと決意していたのに、以前よりも近い気さえすると少しばかり頭を抱えている。
団結力を強めるために隊ごとのメンバーで行動する時間は多い。その間は常にフリットと同じ場にいることになるのだ。
それでも数日間、見ているだけに何とか留め続けていた。

「なんか、凄い対照的な食い方だよな」

右横のアリーサが感慨深げに独り言を呟いた。それにアセムは心の中で同意して頷く。左横のマックスとオブライトも同じような反応だ。
ウルフとフリットの食事中はそれぞれ見たことはあるが、並んでいるとその差は歴然で、この二人が本当にチームを組めるほどの仲だったのか首を傾げたくなる。

「ウルフさん、行儀ががさつになりました?」
「別に変わってねーよ」

そんなことはないとフリットは眉を片方歪める。ウルフらしくないという印象はないが、時間の経過を少し感じた。
言葉を止めたフリットをウルフは見下ろし、トレーの方に手を伸ばした。

「あっ」

フリットが気付いたときにはおかずが一つ減っていた。

「この前もやったばかりじゃないですか!」
「ケチケチすんなって」
「また同じことを」

言っていると、感付いてフリットは浮かしかけた腰を下ろした。そういうことに気付くのも、相手に気付かせるような言動を取るのも変わっていない。
自分にとってのこの前はウルフにとっては二十何年も前の過去だ。それを頭では理解していても、時間による移り変わりを受け入れるのは容易くなかった。ディケとも顔を合わせたが雰囲気がどこか違うし、ミレースは彼女の面影が多く残っていても纏う空気が何か違う。ウルフもそうだった。
それでも、このように何事も無かったように同じ振る舞いをしてくれていることに安堵も感じていた。彼にしたら自然ではなく、此方の現状を意識してのことだとしても構わない。
それは、今の自分にとって幸いとしていいものだと、フリットは頬を緩めた。

アセムは少し、目を丸くした。父親が口元を僅かに綻ばせたからだ。
ウルフが素行悪くフリットのトレーからおかずを摘み食いしてから二人の様子が険悪になるのではないかと青くなったが、予想とは異なって胸をなで下ろした。けれど、何が切っ掛けなのか良く分からないが、子供になってしまった父親が笑みを零すほどウルフのことを信用しているというのは伝わってくる。

食事を片付け終わって皆が談笑を始めるが、アセムはやらなければならないことがあるからと直ぐさま席を外した。
それを目で追いかけたフリットはアセムの姿が見えなくなってから自分も席を立った。すかさずウルフの掌が頭を掴んできた。

「やめてください。というか、手に油付いたままじゃないですかッ」
「そりゃ悪かった」

悪びれる様子のないウルフの手を退かし、フリットは彼の目を見て確信を持つ。

「トイレで拭いてきます。手伝いは入りませんから」

先手を打たれてしまい、ウルフは肩をすくめる。それを了承と受け取ってフリットは食堂から出て行き、アセムが去った方に進んだ。

「……逆効果だったか」
「何がですか?」
「いや、独り言だ」

オブライトの問い掛けにウルフは何でもないと繕う。引き留めようとしたが、アセムのことが気に掛かるのはやはり父親だからなのだろう。ウルフは表情を消した。







背後から急ぎ気味の足音と聞き覚えがある何かが跳ねる音にアセムは振り返った。

『アセム、アセム』

我先にと腕の中に飛び込んで来たのはハロだ。しっかりとボールのようにキャッチすれば、ハロは目の位置にあるライトを点滅させる。

「あの、」

声の方に視線を向ければ、フリットがそこにいる。ハロが付いてきているのだから分かりきっていたことだ。だが、どう向き合えばいいのかアセムには分からない。
表情を取り繕うことが出来ずに困惑を顕わにしようとも、フリットは真っ直ぐに見つめ返してくる。居たたまれず、視線を外そうとした時だ。

「君………、アセムさんは、僕のことを知っている人ですか?」

“ノーラ”のアリンストン基地でアセム達と同じ年齢の軍人はいなかったことを振り返れば、現在では成人年齢が下がっているのだとフリットは知るが、それを推し進めたのが自分だとは気付かない。
変だなと思いながらも、それを口にはしない。

「知ってるって……ここにいる人達は全員、君が司令官だって知ってるから」
「そうじゃなくて」

言葉を途切らせたフリットは視線を弱めたりはしないまま、言葉を探した。
なんとなくだが、アセムはフリットに対して思うことが見つかった。父親はたまに会話の途中で黙り込むことがある。それは此方が何か意見を言うのではないかと待っているものだとばかり思っていたのだが。もしかしたら、言葉が見つからない時の仕草だったのかもしれない。
そういう時、表情を崩す人ではない。今のフリットもそうだが、一つ違うのは表情筋の柔らかさだ。僅かながらに惑う色がある。

「すみません。僕のことを、というのは多分、違います。……僕の知ってる雰囲気が、アセムさんにあるんじゃないかって」

フリット自身もこんがらがっているのか、首を傾げながら話していく。言い切ってみても納得出来るものではなかったのだろう。崩れていなかった表情に困惑が入ってくる。

フリットの言う雰囲気とは母親であるエミリーのことだろうかと、アセムは肩前に流している母親譲りのブロンド色の髪に視線を落とした。

「誰かに似てるってこと、かな?」

そう尋ねれば、フリットは表情を止める。間を置いたが、彼はゆっくりと頷いた。
誰に似ているのか考え始めたフリットに、ここまで話してしまって大丈夫だろうかと思うと同時に、そこまで頑なにフリットから逃げようとすることもなかったとも。

「あのさ、アセムさんって呼ばれるのなんか変だし。アセムでいいよ」

歳だってそこまで離れているわけではないし、そもそも父親だ。フリット自身に自覚と記憶がなくとも、アセムさんと呼ばれる度に背中が痒い思いをするのは意外と耐え難い。

「えっと」
「俺もフリットって呼ぶから」
「……分かりました」

父親だと思うより、ユノアに接するような態度でいいとアセムは納得した。今は自分より年下になってしまったわけで、家族ならば弟みたいなものだ。

弟か……とアセムはもう一度内心で呟く。男兄弟に憧れがなかったわけでもない。ハロをフリットの手に持たせれば、幼い表情で見上げてくる。
面影がないわけではないから、やはり妙な緊張は持ってしまうが話し掛けることに支(つっか)えはなくなった。

「ウルフ隊長がフリットのこと面白い餓鬼だったって言ってたんだけど、身に覚えあるか?」
「おもしろい?」

語彙が豊富でない人であるのは承知しているが、あまりにも粗雑な説明だとフリットは眉を歪める。
それに、面白いと思われていたというのも些か引っ掛かる。ウルフのことだから、そのままの意味と言うより広い意味でということかもしれないが。

呆れているという表情のままに吐息するフリットは僅かに拗ねているようにも見えて、アセムは父親にもこんな一面があったのかと思いふける。
けれど、顔を歪めたりはしているが、フリットがウルフを嫌っている節は今のところ間近にしたことがない。

「隊長と仲が良いよな」
「そういうわけじゃ……信頼は出来る人だけど」
「一目置いてるってこと?」
「僕からそう言うのは、可笑しいんじゃないかな」

目上の立場なら一目置いてるという表現で適切だが、ガンダムの操縦も戦場捌きにも未熟の自覚がフリットにはある。見失わずに追いかけるのがやっと、それが自分の実力だ。
人間としてもまだ出来ていない部分があるとウルフを傍らにすると思うことだってある。

首を横に振るフリットにアセムは意外の感覚を持つ。ウルフからフリットも最初から何でも出来たわけではないと言われはしたが、信じ切れる発言ではなかった。そうかもしれないと思えても、自分の目で見てきたフリットは何でも要領良く的確な立ち居振る舞いをこなす人だったからだ。
だから、子供になってしまってもそのままだと思ったし、それからの行動などを端から見ていても頭と行儀の良い世話のいらない子供だと感じた。

「ウルフさんの方がすごいと思う」
「それじゃあ、悔しいって思ったこともある?」
「ありますよ。何度も」

悔しいというのはマイナスな感情だと意識するアセムはフリットの眼差しが強いことに目を瞠った。

「あの人と比べたら、パイロットとしても、人としても及ばないところが沢山あるから」

瞳の強さはそのままだったけれど、気持ちの通りに表情を崩すフリットは年相応だ。
そういう感情をウルフに対して持っていることを初めて知った。子供の時だけで、今の、正しい年齢であったフリットが同じ感情を持ったままかは不明だ。けれど、そんな時期があったことは確かとなる。

「アセムにも、そういう人がいるんですか?」

此方の無言にフリットは気付いたことを指摘してくる。考えていたわけではなかったが、その言葉に心臓が跳ねた。アセムの脳裏を過ぎるのは黄金に等しい黄色い瞳と銀髪を持つ彼の姿だった。

「―――どうだろう」

フリットがウルフに立ち向かおうとしている感情に似ているのかもしれないが、同じとは言い切れない。還元の仕方が異なっている。
彼を越えたいと望んでいるのに足下にも及ばない。能力の欠けている自分にはどうしようもないのかと、諦めきれずに不格好に走り続けている。

「そういう人がいるのは、自分にとって果報なことだって、僕は思う」

表情に陰りを落としたアセムにフリットは真っ直ぐに伝えた。顔を上げて反応を返してくれたアセムに微苦笑して続ける。

「ウルフさんと会うまでは誰かのことを羨んだり、対抗意識を持つことなんて無かった。知らなかった」

無知ではなかった。けれど、学校のクラスメイト、教師達でさえ話しても解ってもらえなかった。そうして関係することに目を背けていたことを気付かされた。
自分の話が通じないからと、誰かの話に耳を傾けてこなかったのだ。それまでの自分の行いが間違っていたとは思わないけれど、ウルフという存在は新感覚だった。

話し方はストレートだが、蒙昧(もうまい)ではない。彼の言動に感心させられたことは何度もある。それ以上にからかわれている回数が多い気もするけれど、今は目を瞑っておく。
ウルフが目標というわけではないが、指針になっているのは認めるべきだった。

「でもさ、そういうのは汚いものじゃないか」

感情として正しくない。そう告げれば、フリットはきょとんとした表情でアセムの目を見つめた。

「羨むっていうのは、つまり嫉妬だろ」
「嫉妬だとしても。何かに対して感情を持ったり、向けたりすることは人として自然なことだと思います。汚いと思うなら、自分自身がそれを認めることを拒んでるだけじゃないかな」

その感情は諦めではない。まだ先があることを知って、上がいるのならば、自分はここまでと終えずにいられる。
糧とすれば、目指すものに迷いはなくなっていく。

やはり父親だなと、アセムは暗く思った。心掛けなくとも、常に正しい道を進んできたことが窺える言葉だ。
胸を打ち、響くものが少しもなかったわけではない。けれど、どうやったって認めることなど出来ない。足掻き続けてきたのだから。

難しい顔をするアセムにフリットはぽつりと言う。

「アセムは良く考えることが出来る人なんですね」
「え?」
「ウルフさんは賢いとは言い難いから、たまに疲れるんです」

悪いことを言ってしまったと、フリットはハロに視線を落として踵を返そうとする。

「待って。それって、内緒にした方がいいの?」
「お願いします」

振り返り、フリットは小さく頭を下げた。それだけ言い伝えると、元来た道を戻っていく。
小さな背中をアセムは呆けた表情で見送った。面白いと言われたことの仕返しなのか、フリットは悪戯を仕掛けた子供のような顔をしていた。

子供らしくないなと感じていたのは改めるべきだろうか。取りあえず、隊長が賢くないというのは口に出さないようにしようと決意して、思わず笑ってしまった。通路にはもう誰もいなかったが、アセムは口元を押さえた。







食堂に戻ってきてみれば、他にも人はいるが、ウルフ隊のメンバーは隊長であるウルフだけになっていた。途中でオブライトとすれ違ったが、畏(かしこ)まった敬礼と挨拶を返されて戸惑ってしまった。
子供扱いされる方が楽だと思ったのは初めてかもしれないと、フリットはウルフを前にして内心で言葉にした。

「遅かったな」
「もしかして、待っててくれました?」
「まだ飲み終わってねーよ」

コーヒーが注がれたカップを持ち上げてウルフは頬杖をつく。続けてお前も何か飲むかと誘われるが、フリットは首を横に振って彼の向かい側に席を落ち着ける。
ハロを隣の席に置くフリットを見遣り、ウルフは先日からの疑問を口にする。

「お前、調べたりしねぇのか?」

何をとフリットが視線で問えば、ウルフはハロに視線と指を向ける。
ハロをPCモードにしているのをウルフはまだ一度も見掛けていなかった。自分が見ていないだけかもしれないが、フリットが現状を知ったのなら、態度なり何か変化があるはずだった。

「……調べたい気持ちはなくもないですけど。周りの人達が何かを言わないように距離を取っているのは感じてます」
「無駄に勘が良いのも考えものだな。けど、お前の頭なら二十五年分の情報なんか直ぐに理解出来るだろ」
「怖いってのもありますよ。何も変わってない以上に、酷くなっているんじゃないかって」
「…………」

無言はウルフなりの優しさだろう。けれど、肯定も否定も無いならば答えはもう出ている。
ハロを手渡してきたのはウルフだ。彼は此方が現状を知っても構わないとしていた。それでも、決断は託してくれていたのだ。

「嘘を言ってくれてもいいんですよ」
「嘘を信じない餓鬼に嘘を言うほど、出来た大人じゃないのは知ってるだろ」

苦笑するフリットに嗾(けしか)けすぎたと、ウルフは残りのコーヒーを飲み干す。こんなに長い時間フリットと話すのは久方ぶりすぎて、自身の浮かれ具合に歯止めが出来ていない。

「そうでしたね」
「それより、アセムと何を話した」

それに直ぐ返事は返さず、フリットはウルフの目の奥を探る。しかし、ヒントらしきものは見当たらず、空になったカップに視線を落とした。

「彼のこと気に掛けてますよね」
「あいつを気に掛けてるのは俺じゃなくてフリット、お前だろ」

言われ、フリットは難しい顔をした。ウルフと行動を共にしている間の数日、彼は事あるごとにアセムに指摘や指南を他の隊員に対してよりも多く伝えている。それを目にしていたからこそ、さっきアセムを追いかけようとしたはずだ。自分は。
ウルフよりも自分の方がアセムを気に掛けているというのは、流れとしておかしい。

「ウルフさんは知ってるんですか?僕とアセムが」
「少佐、少しお話しを」

遮られてしまい、フリットは女性を見上げた。ミレースはウルフに厳しい目線を送っている。

「はいはい」

肩を落としながらウルフは返事をして席を立った。二人が食堂の出入り口の外側で話し込み始めたのに視線だけを送ってから、フリットは空になっていたウルフのカップを返却口に持っていき、元の席に落ち着く。
自分がウルフと話しているときから周囲の視線に好奇心が混じっていて居心地があまり良くないのだが、一人になると余計にそれを感じた。

『フリット、元気ナイ、元気ナイ』
「そんなことないよ」

話しかけて来たハロを相手にして気を紛らわし、ウルフとミレースの話が長くならないことを願う。







何か元に戻る方法がないか、もしくは気付くことがないか。ウルフに任せきりにしてしまっていたので、一度様子を見に来たのだが。ミレースは彼がフリットに口走りすぎていたのを咎める。

「何を考えているんですか、貴方は」
「そう怒るなよ。フリットにはっきりしたことは言ってない」
「そうだとしても、煽るようなことは言わないと決めたはずです。司令が昔から思慮深いのは少佐だってご存知ですよね」
「あいつが今後もあのままだったら、いつまで隠してるつもりだ?」

司令官が欠けているとしても、副官であるフレデリックか彼と同等の地位にある人間を司令官に緊急処置として置くことも視野に入っている。
だが、戦況によっては今のフリットに戦場に出てもらう可能性だってある。戦力としては充分に使える人材だからだ。
フリットの性格から、スクランブルにでもなれば自分からガンダムに乗り込みかねない。戦場で現状の世界を知って混乱させる方が苦だ。

「それは……」

口籠もったミレースにウルフは自分を棚に上げすぎだと頤を下げる。今後のことを考えるなら、もう少し後でも支障は少ない。ヴェイガンの動向から察するに猶予はあまり無いかもしれないが、襲撃の一度や二度を乗り切る気概はウルフにある。
現段階でフリットのことを思うなら、彼女の意見に従うべきなのは頭では解っていることだ。

「いや、言い過ぎたな。忘れてくれ」

片手を肘から上げてウルフは食堂の内側に戻って行く。勝手に切り上げられてしまったことにミレースは内に燻りが残るが、ウルフが言い過ぎたと主張したのには首を横に振る。
本来ならば、艦長である自分がウルフと同じ懸念を持つべきであるのだ。

フリットの傍らで何事か言葉を交わしてやり取りしている姿をその場から見遣り、目に映るものが当時を思わせる。
かつてが今より輝いて見えるのは錯覚だ。そう胸に言い聞かせて、ミレースはブリッジに踵を返した。







ウルフが戻ってきたことにハロから目を離して、フリットは気持ちを緩ませる。その様子に食堂に残る者達からの視線が強くなるが、それらが気になることはなくなった。

無自覚に安堵しているフリットに頼られている意識を感じて何かあっただろうかと周囲を少し見回す。大方は予想が付き、ウルフは席に座り直そうとする。けれど、コーヒーも飲み終えてしまっており、カップがないということはフリットが片付けたか。

「行くぞ」

頷いたフリットはウルフについていき。フリットにハロがついていく。
通路を進みながら、フリットは途中になっていた話を切り出そうとする。

「あの、ウルフさん。さっき言ってたことなんですけど、アセムは」
「お前、頭汚れたままだな」
「え?ああ、そういえば」
「話は後で聞いてやるから、先に洗ってこい。此処からだと俺の部屋が一番近いか」

決断が早く、先に行ってしまうそうなウルフをフリットは急ぎ足で追いかける。汚したのはウルフだと文句を言おうとしたが、それさえ言う隙がない。
らしくないと、男の背中に悍(おず)ましさを感じた。けれど、そんなはずはないとフリットは首を横に振る。

備え付けの狭いシャワー室にフリットを放り込んでから、ウルフはベッド縁にどかりと腰を下ろした。膝で肘を支え、組んだ両手に額をぶつけるように前屈みになると目を細める。
あまり耳を欹(そばだ)てないように当たり障りのない思考に没頭しようとするが、籠もったシャワーの音が耳に通ってくるのを遮断することは不可能だった。

今のフリットの記憶にはないが、ウルフにはこの現状に既視感がある。
寝てしまうか。そう思って上半身を後ろへ倒し、ベッドを軋ませる。眠れなくても狸寝入りしていれば、フリットも適当に部屋を出て行くだろう。寝起きの場所まで一緒ではないのだから。

音が止み、静寂の後に別の音が重なっていく。
頭にスポーツタオルを被り、ジャケットとズボンを脱衣所に置いてきたフリットはシャツにハーフパンツという軽装姿でウルフの姿を探す。ベッドに中途半端に横になっているのに気付いて、そちらに近づいてみる。

「ウルフさん」

呼びかけてみたが、反応はない。疲れているのだろうかと、フリットはウルフを揺さぶろうとした手を引っ込める。けれど、納得はいかない。

「後で話聞いてくれるって、言ったじゃないですか」

声に拗ねの色が混じってしまったことに俯く。自分はウルフに面倒を掛けていると自覚しているからだ。ウルフの通常の役割に此方のことは今まで入っていなかったのだから、負担でしかないだろう。
疲れさせている原因は自分だ。起こしてはいけないと身を引こうとする。けれど、ウルフの寝方はあまり良くない。フリットは足を止めて、逡巡してからもう一度近寄る。

「そんなふうに寝たら身体冷やしますよ」

触れずに呼びかけのみの注意をしてみる。が、その程度で彼を動かすことは不可能だ。 自分の腕力でも無理だろう。
記憶では、ウルフの腕はここまで太くない。グルーデックに近いだろうかと思うが、彼よりも筋肉は硬そうで、甘やかしがないのは目だけで確認出来る。

雑な生活態度でも平気そうだと、フリットは思わない。だから、放っておくことは出来なくて。
タオルケットらしきものでもないだろうかと室内を見渡す。めぼしいものは目に入らず、フリットは視線をウルフに戻し落とした。
迷惑だろうか。迷惑だろうなと、自問してすぐに自答する。それでも、ウルフが目覚めたら訊きたいことがあるのだ。口実はある。だから、側に居ようとフリットはベッド縁に乗り上げる。

しかし、自力ではなかった。腕を引っ張られる感覚に驚いている間に、自分がウルフの膝の上に乗っていた。向かい合わせになって見上げたウルフの顔に眠気さはない。

「もう少しちゃんと拭け。冷てぇだろ」

濡れた髪から滴った水滴がウルフの皮膚に落ちたらしい。
タオルごと頭を皮の厚い両手に掴まれ、荒々しいが乱暴でない触れ方でわしわしと髪を拭かれる。

「ったく、寝たふりしてたのにうろうろしやがって」

怒っていない口調は呆れと諦めが色濃い。自分が今、どうなっていて、どうされているのか状況を把握し出したフリットは口を開こうとする。けれど、何かを言う前にウルフの両手が頭から離れて、此方の肩をがっしりと両方叩き掴む。
そのまま俯いたウルフは盛大な溜息を吐く。

「あ、の……」
「お前に記憶がないのは分かってる」
「ウ、ルフさ」
「けどな、こっちはもう味を占めちまってるんだ」
「なにを」
「喋るな」

強く言われ、フリットは黙り込んだ。俯くウルフの表情は窺え知れない。そのことが不安を大きくする。頭を引っ込めた悍ましさが再びわき出してきそうだった。

「片手で数えられる程度だ、俺がお前を抱いたのは。今のお前には手を出してねぇけど、身体が大人に追いついた頃にヤった」

息を吐ききるウルフは言ってしまったことに表情を歪ませる。勿論、フリットには見せない。
これは懺悔ではないのだ。ありのままの事実を告げたのみ。だが、今のフリットに言うのは反則でしかない。

掟を破ってしまったことを表情に出せば、いくらか内心が紛れた。これ以上は駄目なのだが、自分の中で勢いづいてしまったのだ。
フリットに被さるタオルの両端を掴み、引き寄せれば。小さな唇が自分へと差し出される。相手の意思とは関係無しに。

食んだ。
見ている視線はいないが、タオルで隠したまま。唐突に顔を上げた此方が仕掛けたことに対して、フリットからの緊張を間近に感じた。





























◆後書き◆

一年以上途中書きのまま放置していた子供化話を構築し直しました。

七つの大罪に後から追加された罪が「嫉妬」でありますが、これだけ浮いているように感じてたりします。他のは自分の中から生まれるもので、嫉妬は外で生まれるものという印象。
アセムはそれを中に生まれさせてしまっているんじゃないかと、引っ張ってもらう切っ掛けをフリット(14)に父親らしく。
ウルフさんも何かに嫉妬しているわけですが、後編にて。

Rückwirkung=遡及(さっきゅう)

更新日:2014/06/02








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