◆Vorschlag der Ehe◆










「フリット、今いいか?」
「はい」

アリンストン基地内でフリットはグルーデックに声を掛けられる。

その場にはウルフもおり、グルーデックはそちらに一度目を向けたが直ぐに戻す。
現役レーサーであり、軍属でも何でもないウルフが連邦基地に厚顔な佇まいで居座っているのは暗黙と化しているが、そういうのとは別で思うところがありそうな素振りだった。

「地球視察の目処が立った。モスクワ支部は受け入れ可能だそうだ」
「日程も決まっているんですか?」
「二月後に此処を発って、向こうで二週間の視察だ。それより掛かるようなら現地の司令官と話し合ってくれ」
「了解しました」

会話が終了したところで、フリットは後ろから名前を呼ばれて振り返る。

「地球に降りるのか?」
「ええ、視察に。モスクワですから、雪が見られるかもしれませんね」

後半は何となくという感じでぼんやりと付け足しただけだったが、ウルフの様子にフリットは瞬くと同時に続けて言っていた。

「一緒に来ますか?」

見る間に表情の変わったウルフに此方の発言が予想外だったことが窺えた。そして気付く。ウルフの都合を何一つ考慮していない言葉だったということに。

「あ、すみません。ウルフさんもレースのこととか色々ありますよね」

気が逸ってしまっていたことを反省した。けれど、ウルフはそれらを覆しに来る。

「いや、二ヶ月後だよな。その時期はオフシーズンだから時間はある」
「でも、シャトル代と宿泊代は」
「こっちで用意しろってことなら問題ねぇけど」

レースの専用モビルスポーツを改修する時に大金を注ぎ込んだが、それ以降での優勝金やスポンサーとチームからの給与でそこそこ貯まっていたはずだ。地球に降りるとなると大旅行ではあるが、何よりもフリットからの誘いだ。踏み出さない道理はない。

安易すぎるほどに話が進み、フリットは自身の中に高揚があることを認める。

「それじゃあ、また明確な予定は連絡入れます」
「りょーかい」

軍基地という場所に掛けているのか、気の入っていない軍式敬礼に苦笑する。と、そこで咳払いが聞こえてフリットはグルーデックを振り返った。
特に何かに気付いた様子のない表情のフリットに対してグルーデックは言葉を飲み込んだ。軍帽を深く被ると、「詳細については司令から話があるはずだ」と言い置いて踵を返した。

ラーガンあたりを同道させるつもりであったが、あの雰囲気に投げ入れるのはどうにも心苦しい。仕事はそつなくこなせる人材ではあるので、視察はフリット一人で何の問題もなく平気であろう。
シャトルと宿泊に関して彼女が提言したということは、ウルフとは別々になると言っているようなものだ。……懸念も必要無い。
ブルーザー司令にはどう伝えるべきかと、グルーデックは肩の荷を重くした。







宮殿や聖堂といった貴族然とした建築はコロニーでも見掛けることはあるが、やはり物珍しいのに変わりはない。
コロニーよりも設計の制限がされていないシルエットばかりだ。
街を囲むように並び立つ尖塔にはそれぞれ意味があるらしく、フリットは救世主塔に向けていた視線を戻した。

いつもは結っている髪を今日ばかりは下ろしていた。いきさつに理由はあるが、そこに意識を向けないようにフリットは白い息を吐く。
マフラーに首を埋(うず)める。

「そろそろ行きましょう」

立ち上がりながらフリットは言い、一歩を踏み出すが、右手を後ろから掴まれて振り返る。ウルフはベンチに坐したままであり、フリットからは彼を見下ろす形になっている。

「結婚してくれ」

白い息が途切れ、フリットは大きく目を丸くする。ウルフの声を自分の内側で反芻すれば、視線を彷徨わせたり開閉したりとするしかない。忙しなく映る世界が変わっているはずなのに目には入ってこなくて。
胸の奥が痛いくらい熱く、フリットは握った左手で胸を押さえる。これをどうにかしてしまいたくて、ウルフに視線を戻す。

「………困り、ます」

耳だったか、髪だったかは確認出来なかったが、ウルフが僅かに身を揺らしたのは確かだった。
返事を聞き入れたウルフは立ち上がり、フリットから手を放して歩き出す。その背中から置いて行かれると、そう感じたフリットは出来るだけ早く幅を詰めるようにウルフに並ぼうとする。

「あの、急に言われても」
「イエスでもノーでもねぇんだろ?」

言い訳でも何でもいい。勘違いされたままでは伝えたいことまで言えなくなってしまう。
そう考え出たフリットからの言葉をウルフは分かっているとでも言うように被せて言ってくる。
立ち止まったウルフをフリットは一歩分追い越してしまうが、その位置で立ち止まって彼を振り仰ぐ。静かな表情で首を傾けたウルフは口を開く。

「それでいい」
「でも、えっと……それじゃあ」

駄目なのではないかとフリットは続けたかったが、その後をどう繋ぐか言葉も気持ちも浮かんではこなかった。
噤んだフリットの様子にウルフは口元に微笑を残して、彼女の頭に触れる。

「俺が勝手に先走っただけだ」

ずっと考えていたことをフリットに伝えたわけではなかった。ふと、ついさっき。あの瞬間にこいつと一緒になりたいと感じて、口からそのまま言葉にしてしまっていた。
言った本人であるウルフも、言い終えた後に内容に気付いたようなものだった。
三十を過ぎて落ち着いてきたかと思っていたが、フリットに対しては衝動的になることが多すぎる。思い詰めている表情は嫌いではないが、そういう顔をして欲しいと思っているわけではない。

判然としない返事でウルフには充分だった。どう転がろうとも、フリットの視線は自分が独占する腹づもりなのだから。と、フリットから手を退ければ、彼女は困惑を強くした俯き顔を湛えていた。
これだから、腹に入ればいいと割り切ることに抵抗を憶える。
大概に身勝手な部分が自分にあることをウルフは重々理解していた。

「お前は他人に合わせるタマじゃねぇだろ。俺の言ったことを忘れさえしなけりゃ、それでいい」

あのフリットの反応から、一生忘れることはないだろう。自分もまた、先程のフリットの表情が焼き付いて離れないのだから。
もう少し雰囲気だとか場所を選んで順序立てたかった思いが後から追いかけてきていたが、後悔は得ていない。

「他人は、嫌です」

一端、会話を区切らせたつもりだったウルフはフリットからの受け答えに瞬く。言葉通りに受け取るなら、自分はフリットの中で他人として見られていないことになるのだろうかと。

フリットは言い伝えてから、はっと後ろに身を引いた。どういう意味でウルフは捉えてしまっただろうかと。他人のままでは嫌だと、そう捉えられていたらベンチでのあの言葉への返事とも受け取れる。
どちらにしても想いは定まっているのだが、気持ちは整理も決断もしきれていない。

彼女としては此方がどういう位置づけにあるのか問い質したいと思ったが、下がったフリットにそういうわけにはいかないかと、ウルフは前へ踏み出す。
横に並んだ瞬間にフリットの背中を少し強めに叩いて促してやれば、変わらぬ態度の此方に安堵した顔を見せる。けれど、釈然としないニュアンスを残された。構わずにウルフは歩を進めていき、フリットも遅れて後ろを追随してくる。

ウルフの背中を視界に捉え、フリットはもう少しだけ距離を詰めるように歩幅を大きくする。
どちらかというと、ウルフの方から距離を縮めてくることが多い。だから、自分からという時は距離感の取り方に基準のようなものがない。多分、ウルフにはそういうのがあるのだろう。そう感じることが多々ある。

横に並ぼうか、このまま後ろにいるべきか迷っていると、白い粒が視界に入り、落ちていく。彼も気付いたのだろう、二人ほぼ同時に空を見上げた。

「雪か」

背中越しに耳に届く声に明るさがのっていた。
雪が見られるかもしれないと口にした時の彼の表情をフリットは思い出して、少しばかり表情を綻ばす。

晴天の時には賑やかな色合いの街並みは、雪雲でクラシカルな姿を醸し出していた。
汚染や砂漠化で一時は住める状態ではなかった地球は確実に再生されている。ここまでに至るまで、多くの時間と人々が関わってきたのだ。
それらを雪が彩っていく。

視察の箸休めということで、昨日の昼から明日の早朝まで休暇を与えられているフリットはその時間をウルフと共に過ごしている。フリットの宿泊はこの地の連邦基地領内に設けられていたが、ウルフは街中の宿泊施設であるホテルの一室を借りていた。

また自分から行動を起こそうとしたことに、昨夜のことを仄かに思い出して寒さからではない赤味が頬に溜まる。
地球の大地に導かれてなどと大げさなことを言うわけではないが、いつもと違う場所というのは情感を刺激する。それに後押しされたにしても、あれは流石にと恥ずかしさがまた募り溜まる。

しかしながら、後押しされたのはウルフもまた同じなのではないか。そう思えば、彼からの言葉は重く受けとめるべきと決められたものではない。大事なことではあるから考えるべきことだが、懊悩(おうのう)して見誤ることだけは避けたい。

突き動かされているのではなく、これは自分自身の意思だと。フリットはその背に後ろから抱き寄った。防寒として互いにコートを着込んでいるため、体温は簡単に届き合わなくとも感触だけははっきりとある。

束の間の驚愕を落ち着けたウルフは首を傾けて背中の気配を窺う。

「そういうのは、起き抜けのベッドの上でするもんだろ」
「う゛」

わっとフリットは心身を緊張させて総毛立つような熱を押さえ込もうとするが、どうにも上手くいかない。
言葉に意味も何も、そのままだ。一夜過ごしたことに退嬰(たいえい)してしまって、外に出てから今まで消極的だったことを揶揄されている。

「そんなこと言われても」

しかし、何よりも始めに此方の寝癖を直そうとウルフが先に後ろにまわってしまったのだ。そうして欲しかったと言われたところでタイミングもなかったように思う。
意地悪でウルフも言っているわけではないと声音から分かるが、自らの焦燥を裏返すようなことを口にしてしまう。
苦笑したウルフの反応から見透かされていることを知って、余計にフリットは眉に力を込める。
それでもウルフから距離を取ろうと後ずさらないのは寒いからだと、頬に触れた雪の粒に言い訳していることを自覚の上で、フリットはそのまま身を寄り添わせ続けた。

ウルフは苦笑を閉じてフリットを支え受け止めるように立ち尽くす。我が儘を言ったら何処まで赦してくれるかという甘えは持っているが、好きな女の前では格好を付けていたいものだ。

しんしんと緩やかに降る白い雪が運んできたのは、身体を芯まで冷やす結晶ではなかった。












連邦のモスクワ支部に設けられている軍基地での視察期間は残り三日。煮詰まりもなく順調に進んでいるため、期間の延長はないだろう。
知り合いのいない場ではあったが、視察に協力してくれている人達とはそこそこ打ち解けてきた時期でもある。先の事を思えば勿体なさも感じるが、効率良く予定通りに仕事を進ませるのはフリットにとって何よりも優先すべきことだ。義務の達成感を得られそうだと、心は穏やかだった。

しかし、穏やかでないのもまた居た。
姉御肌の世話焼きな女性士官二人に詰め寄られた一兵卒の青年は幼さの残る顔の口元を横一線にして身を縮こまらせていた。

「いいの?このままだと彼女、宇宙に帰っちゃうわよ」
「男なら当たって砕けなさい」

砕けたくないから行動に移していないというのに、彼女達にはそれが伝わらず、どうしたものかと青年は眉を歪める。
まだ淡いものであるし、そのままにしておいて青春の一ページにするぐらいに留めたって罰は当たらない。

「あんたさぁ、ずっと目で追いかけてるの自分で気付いてないわけじゃないでしょ」

図星だ。しかし、視察に来た彼女がずっとこの地域に留まっているわけでないことは最初から決まっていること。
どうしようもないし、断られる未来しか視えない。知り合ってから一週間程度だ。凹んで仕事に身が入らなくなるくらいなら、このままにしておきたい。

「アスノちゃんが休暇に入る前にデートにでも誘えば良かったのに」

それを言われると痛い。少し、いや、かなり後悔していたことだったからだ。
街の方に行くというのは耳にしていたのだから、観光案内ぐらいならと買って出ることも出来たはずだった。その日はシフトが入っていたが、勇気を出せば先輩格の彼女達が手を焼いてくれていたというのは言葉の端から感じる。

「いいんです。はっきりしてもいないんですから」

甘酸っぱい感情かも分からない。自分とさほど歳が違わないのに、彼女には実績があるからただ単に凄いと尊敬しているだけかもしれない。

「端から見てるとバレバレなんだけどねー」
「ねぇ」

彼女達が呆れた顔で互いを見合わすのに彼はぐっと詰まる。しかし、何時までもこうしていればサボっているようにしか見えない。
早々に彼女達の輪から身体を反転させて収拾したデータを整理するために入力機に向かえば、別の役割を担う班の者達と話し合っていたはずの彼女が此方にやってくるではないか。

「ベルナルト、二日前のデータを見せてくれ」
「二日前っていうと、今年一番の積雪か?」
「ああ」

ベルナルトは該当のデータが記録されているファイルを呼び出しながら口にする。

「凄いよな。初日のときは足滑らせて谷底に落ちてたのに」

フリットが搭乗していたモビルスーツは彼女が宇宙から降ろしてきたガンダムだった。
だが、この基地で使用している規格のものとは違い、雪山用のモビルスーツではないために最初は歩くことさえままなっていなかった。この間も、吹雪を防ぐためとはいえ、モビルスーツのカメラとコクピットを庇うように両腕でガードしていたが、あれも前が見えなくなるので危険だ。

周囲がそのことについて笑いの種にしていたことは絶対に耳に入っていただろうに、顔色も変えず澄ました態度でガンダムの調整を行っていた。
今もその話題を出しても彼女は眉一つ動かさない。自分と一つほどしか違わないのに、慄然とした姿勢が気になるとベルナルトは画面を覗き込むフリットの横顔の近さに固まる。

「積雪の深さによっては、今のガンダムじゃ此処のモビルスーツみたいに動けないよ。AGEビルダーも運んできたかったけど、視察の目的は地球用モビルスーツの次世代機計画の一環だから」

AGEシステムについて一通り聞かせてもらっていたベルナルトは一つ頷くに留め、アスノ家についても同僚や先輩から聞きかじった内容を思い起こす。
銀の杯条約が敷かれている今はモビルスーツ鍛冶にとって痛手でもある。彼女も鍛冶屋を継ぐわけではないと言っていたとあの世話焼きの彼女達から頼んでもいないのに聞かされた。
それでも次世代機の設計に携わるように指示を受けているのだから、技術は相当のものだ。間近にしていれば解る。

今一度彼女の横顔をそっと窺ったベルナルトは綺麗だと思った。決して美人の部類ではないが、仕事に向かう姿勢に心底そう感じたのだ。
今なら言えるのではないかと、彼は意を決した。

「あのな、フリット」

呼びかければ、彼女は振り返った。けれど、様子の変化にベルナルトは瞬く。
一度は此方を見たフリットの視線は自分より奥の背後に向かっていた。それを追うように彼は後ろを振り返ったが、ほぼ同時にフリットが肩に触れてきた。

「すまない。話は後で聞くから」

肩に触れていた彼女の手が離れ、此方を横切ったフリットはその先にいる人物の目の前まで近づいていった。

軍服でも整備服でもなく私服姿の人物の顔は見掛けたことがないものだ。だが、見覚えがあるような気がしてベルナルトは首を傾げる。けれど、その疑問を解消するように姉のような二人が間近までやってきて言葉を添えた。

「あれってモビルスポーツレーサーのさ」
「そうよね、ウルフ・エニアクル」

まさか本物だろうかと続ける彼女達だが、本人であると確信を持っている。
耳に届くフリットと話している声は映像ニュースなどで聞き覚えのあるものだった。

「よぉ、ちゃんと働いてるか?」

開口一番の返答としてフリットは吐息を返事とした。

「何しに来たんですか?一般人は入れないはずですが」

軍基地の一般公開は自前に申請が必要だ。それに基本は団体での受付しかしていない。個人での見学はあり得ないはずだ。

「受付嬢にサービスしたら快くパスくれたぜ」
「そうですか」

だいたいそんなことだろうとは思っていた。握手やサインで釣ったのが目に浮かび、フリットは溜息を零す。

「浮気じゃないぜ」
「何を勘違いしてるんですか」

嫉妬しているわけではなく、呆れているのだ。半目でフリットがそう返せば、ウルフは口元に笑みを乗せて「可愛くねぇな」と言いながら彼女の頭をわしわしと撫でた。

人目があるところではやめてくれとフリットはウルフの手を遠退ける。そこで、周囲の声にも注意を向けることになってフリットは口元を引き結んだ。
ここはアリンストン基地ではないのだ。ウルフのような世間的に知名度の高い有名人が一人紛れ込むだけで注目の視線と言葉だらけになる。それに遅れて気付いた。

「ウルフさん、ちょっと」

フリットはウルフの腕を掴んでその場から移動する。
人気が無くなった適当な通路でやっと足を止めたフリットはウルフを振り返る。

「僕に用事があったと思って良いんですよね?」
「知り合いはお前しかいないからな」

それを聞いて安心した。レーサー上がりの軍人を訪ねに来たと言われたら、自分の思い上がりになっていたところだ。

それで用件は何かとフリットが顔を上げようとしたところで、彼女は自分の身に起きたことに目を白黒させる。
両手を壁に縫い止められ、ウルフの行動にフリットは釈然としない表情で相手を見据える。

「やっぱ、こういうの燃えるよな」
「なに考えてるんですか」
「向こうは見張りがいてあんまり出来んだろ」

向こうとはアリンストン基地のことだ。ラーガンやミレースの姿を思い浮かべたフリットはウルフが言いたいことを飲み込めたが、彼がこれからしようとしていることは分からない。いや、正確には気付いているけれど、気付かないようにしていると言った方が正しいか。
似たようなことが前にもあったからだ。あの時は傷をつけるだのどうだなどと意見をぶつけていた記憶がある。悪い記憶ではないが、居心地の悪さがないとは言い切れない。

「この間の噛み痕、見せてみろ」
「……ここで、ですか?」

フリットはとある方向に視線を一度向け、それから再びウルフに視線を戻す。悩みが強く、引き結んだ口元が歪む。拒絶はないが、場所の選び直しが必要だった。

両手の拘束が解け、フリットが腕をおろしきる前にその身体が手前に引き寄せられる。強引に愕くが、強要でない確信があってウルフに身を寄せたまま大人しくした。
布の擦れる音がしたかと思うと、それが自分の顔後ろで続く。そういえばと思い出してフリットは小さく息を吐いた。
自分にとって大切なものだ。数日身に着けていなかったが、ウルフのもとにあると分かっていたから不安を抱いていなかった。

「なんとかマシになったか?」

鏡がないので確認は出来ないが、ウルフが何度かやり直していたのを察していたフリットは別に解けない程度に出来ていれば構わなかった。

「届けに来てくれたんですか?」

リボンを指して問い掛ければウルフはそれもあると頷いた後で眇を寄越してくる。右肩にある噛み痕をこの場で確認するのを諦めていないようだった。
けれど、フリットの迷いに気付いているウルフはそれ以上に含めることはなく、「あとな」と続ける。

「三日で終わりそうか?」
「順調ですから、期日中に切り上げられると思いますよ」
「それなんだが、チームの方で早めに調整したいって連絡来てな」

明日には此処を発たなければならないと続き、フリットはそれは仕様のないことだと少しの残念から目を背ける。

「気にしなくて良いですよ。わざわざ直接伝えに来てくれなくても……」

これは本心とは違うという自覚が声をすぼませた。

不自然の理由を汲み取ったウルフは笑みを持ってフリットの首と髪の間に手を差し込む。頬に掌の温もりを感じてびくりと肩を揺らしたフリットは視線を上げた。
途端に相手の顔が間近に降りてきていて「だめです」と反射的に咎めれば、ウルフは首を引くが笑みを消す。相手の表情の変化にフリットは相変わらずの真顔で対峙する。

暫し睨み合いが続き、どちらも折れないが先に動いたのはウルフだった。

「横取りされるほどツメは甘くないつもりだがな。見せ付けたいのが男の性分ってのは知っておけ」
「―――」

有無を言わさずに唇を掻っ攫った。緊張は伝わってきたが、拒絶はない。
此方の発言に同意を示している空気はなかったが、それで構わなかった。
本当は本能のままに噛み付きたい。それをフリットも気付いているし断ったからこその寛容の拡大だとも。そこに付け込んでいるのは自分だ。自分のものだと、重ねる角度を変えた。

決定的な瞬間は腕で隠れて目にすることは出来ていなかったが、二人の間で何が交わされているのかは明白だった。
自分の後ろを取り囲んでいる彼女達から思置く気配があるのをベルナルトは感じ取っていた。二人に無理矢理背中を押されて連れてこられたのだ。
しかし、彼女達を責める理由はない。ただ、混乱はしていて視線を床に落とした。

それからどう一日を過ごしたのか曖昧なまま、ベルナルトは朝食を摂るために食堂に赴いていた。習慣よりも早い時間だ。あまり眠れていないが、胃に何か入れれば頭も働いてくるだろうと思ったからだった。

「珍しいな、君がこの時間にいるなんて」
「うわッ」

視界の横に入った彼女の姿と声にベルナルトは驚いて、大げさに飛び退いた。
此方の酔狂な反応にフリットは驚かせてしまったことを詫びてくる。謝られることではないとベルナルトは首を横に振る。自分の素っ頓狂が原因で周囲から視線が集まっていることに肩身を狭くしつつ咳払いをした。

「あまり人目は気にしなくていいんじゃないか?」

励ましの言葉と受け取れたが、目に焼き付いていたものがはっきりと脳裏に表れた。言うべきじゃないと心の奥は止めようとしたけれど。

「お前は気にしたらどうなんだ」

一歩分先に出ていたフリットが振り返る。首後ろのリボンが揺れた。その表情に翳りはない。

「やっぱり、あそこにいたのは君か。あと、アンナさんとチェルシーさん」
「気付いてたなら性格悪いぞ」
「僕だってああいうのは人目を気にしてる」
「だったらどうして」
「あの人が人の言うこと全部聞き入れてくれるわけないだろ」

そこで表情を崩すフリットを間近にしてから、彼女が人目を気にしてると言った意味を捉える。見られたことを気にしていなければ、フリットは自分に話し掛けてきていなかっただろう。
無駄話をしている姿はあまり見掛けたことがない。していたとしても、彼女から話を振ることはないに等しい。

「口止めか?」
「そんな回りくどいことするようなことでもないだろ。自分が軽率だったのを反省してる」
「いや、それをオレに懺悔されても困るんだけど」

向こうは気付いていないが、自分が惨めになるだけだとベルナルトは内心で溜息を吐く。
なし崩しに同じテーブルで横並びに食事を共にすることになったが、正直気まずいと彼は二度目の溜息を内側に零す。
沈黙が続いていたが、先に食べ終えていたベルナルトはフリットが食事の手を止めたところで口を開いた。食事中に何度か頭の中でシミュレーションした上での決意だ。

「フリットはウルフ・エニアクルと付き合ってるのか?」
「見ていたなら分かってるだろ」
「そうだけど、さ……遊びで付き合わされてるなら」
「それはないよ」

断言されてベルナルトは怯んだ。

「誰かを欺(あざむ)いたり、そんな面倒なこと考える人じゃないから」

そういう真っ直ぐなところが嫌いではない。頼りにもしている。
物思いにか、ウルフのことに意識を向けているフリットの面差しは知らない表情で、ベルナルトは視線を外した。

「好きなんだな」

感情がのらないように言うのが精一杯だった。玉砕覚悟で沈んでいると、微妙な返事がフリットから返ってきてベルナルトは彼女に視線を戻すことになる。

「………すき、ということに、なるのか」

納得しきれていないような様子に戸惑いが見えた。けれど、確認しようとしている素振りもある。

「何か悩み事でもありそうだな」
「……君は、家庭を持つ時期を予定しているか?」
「家庭って、何歳までに結婚したいかってことか?」

頷くフリットに悩みの原因について予想が少しついた。意外と冷静になれている自分を不思議に思いながら安堵している。

「目標はないけど、今はまだ早いなとは思ってる」
「そう、だよな」

歳が近いからフリットもそういう話を振ってきたのだろう。けれど、男と女では意識の仕方が違う事柄ではないだろうか。
その証拠にフリットは同意を口にしていても、決意の気配がない。

「目標や予定は一人でも立てられるけどな。結婚は二人でするものなんだから、時期とか何時までにとか決めるのは野暮じゃないか?」

タイミングが合うか合わないか。それだけだ。逃せば難しくなる。そういうものだ。

「なら、籍を入れたいと思えるときはどういう状況だ?」

言い回しが何かの作戦会議みたいで調子が狂うが、フリットの眼差しは真剣そのもので、肩を落とすわけにはいかない。
短い付き合いだが、彼女は物事を真面目に捉えすぎるところがあると思う。

「想像でしかないけど、その人との未来のビジョンが見えた時とかだろ。多分」

言っていてだんだん恥ずかしくなってきたが、彼女は一笑に付すこともなければ呆れてもいない。此方の意見を真摯に受け止めていた。

そうだ。先のことも考えなくてはいけないとフリットは思い改める。
一緒にいられる時間がもっと長いといいとか、それだけでは自分も納得の出来る答えではない。決断には至れていないが、憑き物が落ちたようだった。

「相談出来て良かった。有り難う」
「役に立てたならいいけど」
「そういえば。昨日、何か言いかけていただろ?」

後で聞くと言い残していったフリットを思い出し、自分が何を伝えようとしていたのかも思い出したベルナルトは固まる。今となってはもう言い出せる言葉ではない。

「ああ、あれはもういいんだ。うん、大丈夫」
「?……そうか」

歯切れが悪いなとは感じたが、詮索されたくない様子だったのでフリットは会話を区切った。此処での視察が終われば縁がないからという理由ではなく、フリットの性格によるところが大きい。

もう少しどうにかした方がいいだろうかとフリットは改善を思い起こしはするが、自分が詮索されたくないことを根掘り葉掘りされたら困る。そう思うと言葉は出てこない。
人付き合いの仕方が不器用な自覚はそれなりにあった。ウルフと出逢っていなかったらもっと引きこもった性格のままだっただろう。それでも、自分はあまり変われていないと、そうも思う。周りからは、とくに、ウルフからはどう見えているのか。

昨日、訪れてきた時には返事を求められることはなかった。けれど、どんなつもりで彼はあの言葉を告げたのか。
子供扱いはされたくないのだが、彼から見れば自分は子供と言えるくらいの年の差はある。基地の外であるホテルでの一夜が起因だろうか。

フリットが思考を彷徨わせている最中、ベルナルトは気配を消す素振りも何も無い彼女達が此方を見つけて近づいてくるのに横目を向けた。

「アスノちゃん見ぃつけた」
「おはよう御座います。あと、ちゃん付けは……」

やめてほしいと此処に来てから何度も断っているのだが、チェルシーには聞き入れてもらえずにいる。最終日までこのままなんだろうと、フリットは諦め体勢だ。

女性らしい丸みを持つチェルシーから後ろから抱きつかれ、長身で細身のアンナに髪の毛を弄られているフリットは二人にくちゃくちゃにされている。
他の者達はフリットのことをよそ者として距離を取っていたり近寄りがたいとの印象を持っているようで、あそこまでするのはあの二人ぐらいだ。文句を口にしても、引き剥がそうとしないフリットの様子を窺えば、彼女は嫌がっているというより恥ずかしがっているように見えた。

女性特有の甘い香りが漂って、フリットは力が抜けそうなのを耐える。くらくらすると表現すべきか、身の置き所が定まらない。

「そういえば昨日、聞きそびれちゃったけど。あのウルフと付き合ってるの?」

はきはきとしている口調は押し切るような強さがあり、フリットは喉から声が出せなくなった。こういう訊かれ方をされると戸惑いが大きくなってしまって、冷静に対処するのが難しくなる。
それに、ベルナルトはすぐにあの場を去ってくれたようだが、彼女達は違う。ウルフが去る直前に真相を確かめに来た。昨日はまだ仕事が残っているからと追求を逃れたが、今はそうもいかない。

「えっと……」
「昨日は他の奴らからも質問責めにされてフリットは疲れてるんですよ」

見かねてベルナルトが口出しすれば、チェルシーは彼に目線を向ける。

「あんたのためを思って訊いてるのに」
「もうすっかり諦めましたから」

その返事にチェルシーも横のアンナも目を丸くした。彼がそこまで言うのだから、既にフリットから直接聞いたのかもしれない。
トレーを片付けるために一人立ち上がったベルナルトは彼女達の後ろを通り過ぎていく。

「失恋しちゃったかー。お似合いだと思ったんだけど」
「あの、何の話ですか?」

自分だけが内容についていけてないらしいと、フリットはまだ離してくれていないチェルシーに問い掛ける。けれど、答えはなく、困った吐息が応えとして来た。

フリットの困惑を感じ取ってチェルシーはアンナに目配せした後、抱きついていた腕を解いて、その両手でフリットの肩にぽんと触れる。

「アスノちゃんがウルフみたいな派手な相手とね、って思っただけ。でもまぁ、女としては、危険な匂いのする男に惹かれるものよ」

そんなことはないと前者に対して口にしようとしたが、後者の危険というワードにフリットは口を閉じた。

ウルフ自身に対して危ないと感じるところはない。優しいとすら思う。
けれど、ホテルでの、シーツの上で、自分の身体は警戒を主張していた。それでも一夜共にしたのは、それよりも気持ちが強かっただけのことなのだが。

危険を体感したからなのか、ウルフを前にすると鼓動が煩くなる。それを気取られないように平静を努めていたりするが、昨日、ウルフに気付かれていたのではないか。そう思えば思うほど鼓動が忙しなくなる。
これを惹かれていると表現するのならば、そうであるのかもしれない。はっきりと認めるまでに至れないのは、ウルフに潜む危険は彼の一部であり全てではないと知っているからだ。

「そんなことはないです。ウルフさん、優しいですから」

だから、言おうとしていたことを口にした。

視察前に地球関連の文献の幾つかにフリットは目を通している。その時に仕事を進める上では必要の無い項目まで調べていた。
ある地域では狼は畏怖や恐怖の象徴とされていたと記録が残っている。狼絶滅と共に伝承も薄れていったのであろう。詳細について深く触れているものは見つけられなかったが、語り継ぎが途絶えているわけではなかった。

宇宙時代だ。精霊や獣人などはかつての娯楽による想像に過ぎない。
そう思うことで意識から除外していたのだが、きっかけがあれば想起してしまう。恐怖を内包する狼が近しい場にいるのだと。
けれど、彼は畏怖を押しつけない。それを纏うことはあっても、押しつけないことは身をもって実感した。
大丈夫だと思えたのはウルフの本質が傷つける牙ではないからだ。

「そ?チーム内で流血沙汰になったって、去年あったよね」
「血は出てないわよ。それに、あれはスポンサー側に落ち度があったからでしょ」
「そうだっけ。でも、先に手を出したのはウルフなのは確か」
「男は血の気が多くてなんぼって言ってたの誰だったかしら」

二人の会話にフリットは苦笑だけを交える。そのように思われがちなウルフを不憫だと一度思ったことがある。けれど、ウルフ自身はそんなことを感じていなかった。
そういったイメージに価値があり、ブランドなんだと語られた。直ぐにそれに理解を示せたわけではない。それ以上をウルフが言い重ねなかったのもある。だが、今となっては彼が多くを語らなかった意味も分かる。

ファンを含む視聴者がレース内容やレーサー個人に対して抱く感想は自由でいい。一定のイメージは知名度の高さを示してもいる。
実像でなく偶像だとしても、虚偽を流しているわけではない。
だから、フリットは彼女達に念押しをするようにウルフのことに関して訂正を入れない。入れてもウルフが気分を害すことはないと想像も付くけれど、これは自分の意思だ。ウルフと自分の間にある共有は外に出すものでなく、内に広げるものだと。

トレーを片付けるためにフリットは席を立つ一言を二人に告げ、返却口に向かう。途中、ベルナルトとすれ違うタイミングでフリットの携帯端末が鳴る。
器用にトレーを片手に持ち直して、端末を手にしたフリットが動きを止めたのをベルナルトは横目で確認しながらも横切る。しかし、背後で端末を耳に当てたフリットから相手を呼びかける名が口にされた。

「すみません。場所変えたいので、少し待ってください」

返却口にトレーを戻しながらフリットは呼びかけた後に言伝すると、食堂の出入り口のほうに急ぎ気味に向かっていく。

今出て行くのは忍びないと、ベルナルトは座っていた席に落ち着くことにした。まだ食事を取りに行っていないチェルシーとアンナが両脇を固めてくる。
説明するまでもなく、彼女達が想像する通りの相手が彼女に連絡を入れてきたのだ。

前方と後方に人の姿がないことを確認してフリットは通路脇に身を置く。その上で端末を耳に当てた。

「どうかしましたか?」
『ステーションに着いたんでな。宇宙(うえ)に上がっちまうと連絡取りづらくなるだろ』

事実、ウルフが所属するチームからの連絡も人手を何人か伝ってきたのだ。
軍のように組織同士で宇宙と地球で繋がりがあれば難しいことではないが、個人単位では容易ではない。

「そうは言っても、僕も数日には上がりますよ」
『分かってねぇな』

何がだとフリットは怪訝を表情に出した。けれど、向こうのウルフが空気を変化させたことに勘づいて眼を細める。

『声、聞かせてやってんだろ?』

低くなった相手の声色にフリットは身を竦ませる。
聞かせてやってる。その言い方に微塵も不満がないわけではないが、狡いと、そう思う。
顔に熱が集中し始め、身体の内側が熱くなってきた。

「……そういうの、言わないでください」
『否定しないなら都合良く受け取るぞ』
「ご勝手に」

フリットは口を引き結び、端末の方を遠ざけるように視線を移動させる。
都合良くも何も、ウルフは此方の感情の動きをはっきり捉えているだろうに。こうやって弄ぶようなことを仕掛けてくる。

『なぁ』
「………」

だから、悔しさから押し黙っていれば、ウルフの方も沈黙を置く。けれど、長い時間ではない。

『聞かせろよ』

心臓が跳ねた。あの告白の答えかとそう思った。
しかし、違う。もっと単純な要求だ。

『お前の声』

またあの低い声で求めてくる。一夜のことを思い出させるような声で。噛まれた痕に沁みるような声が耳元を濡らそうとする。

自分が寝衣を忘れてきていなければ、あのような展開にはなっていなかったのではないかとも思う。
ウルフのシャツ一枚に身を包んで静かに眠れるわけもなく。一人で宿泊し続けているウルフがツインの部屋を取っていたのだから、彼自身はそのつもりというのを強くは持っていなかっただろう。

ベッドから抜け出して、ウルフの飲みかけのビール缶に興味本位で口付けた。舐める程度にしか口にしなかったが、何をしているんだろうと内で言葉にすれば、酔ったように全身が火照った。
素肌を覆うシャツから匂いがするのがいけない。ウルフに抱き竦められているようで落ち着かなくて、物足りなくて。

迷いを上回るものが身の内にあって、自分から近づいた。ベッド縁にゆっくり手をついて、乗り出すように覗き込んで。銀髪に唇を寄せて触れ合わせた。

それだけにしようと思ったけれど、朝までに言い訳を考えればいいと決意した。けれど、潜り込まれてウルフが気付かないわけもなく。それどころか最初から気付いていた口振りで言開きすら崩された。
それからのやり取りと激しさを思い返せば身悶えるように気持ちが溢れそうになる。

平静を保つための吐息が熱かった。もう、どうしようもないなと、フリットは端末を両手で支えるようにして、震えそうになる唇を開く。





























◆後書き◆

大概は「今」を視ているのに精一杯で、「先」を視るのは頑張っている証拠で意味のあることだったら良いなと。
将来どうなるのかという不安より、現時点で今までを振り返ったときに「ここまで来たんだなぁ」という余裕を持ちたいものですが、いやはや難しいものです。
フリットちゃんがウルフさんと結ばれて、アセムやユノアを授かって、幸せだと感じた時に振り返る時間が持てればと。

タイトルバーの会話文はベッドに潜り込んでからの二人。この後に初夜がはじまるんでしょう。端折りました(脂汗)

拍手掲載部分は時間の流れ通りに組み直して、前後を繋げるために少し加筆修正。追加加筆は地上の軍基地でのシーンになります。

Vorschlag der Ehe=プロポーズ

更新日:2014/05/05
拍手(部分)掲載日:2014/02/02〜2014/05/05








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