◆Narbe-後編-◆









波打つ海が砂浜を濡らしては引き下がり、また砂浜を覆う。
濡れた砂は乾いているものよりも水分を含んでいることで密度が増して足場が安定している。それを見越しての身の振り方で、若草色の尾が弧を描くように揺れた。

「流石、軍人と言うべきか」

フォックスが言う先では、女学生達にしつこくナンパして強引に手を出そうとした男達の中の一人を、回し蹴り一つで牽制したフリットが地面をトントンとサンダルのつま先で確かめ叩いているところだった。
隣に並ぶように立っているウルフをちらりと見遣れば、目線はフリットの方にある。此方の言葉は耳に届いていただろうが、無表情なのでウルフがどう受け取ったか知る要素は無い。

「あんなんだから誰もフリットに声掛けないのに、ウルフのおっさんはよくアイツに絡めるよな」

フォックスの先の言を聞き付けたディケが数歩此方に近づいて来てそう言った。

ウルフの前でパーカーを脱ぎ捨てたフリットの水着姿に自分の周りにいた男達が喉を鳴らすのをディケは聞いている。所々からスタイルについて高評価な小声の発言も聞き取れた。
学友達と誰が可愛いとか綺麗だとかそういう話で頻繁に名があがるのはエミリーだが、フリットの名を口にする奴も少なくない。けれど、モビルスーツ鍛冶という家系故のミリタリー重視な物言いや軍に足を突っ込んでいることから、人気に反して行動に移す男は皆無だった。

「近寄り難いってのは、そいつらの器量がその程度ってだけだろ」

自分が特殊な行動をしているという認識をウルフは持ち合わせていない。気になるなら近づきもするし、声を掛けて触れる。ごく自然なことだ。それが出来ないのは本気度が足りなかったりと、何らかの不足があるからだ。

「まぁ、そういうのも分かるけどよ。女らしさに欠けてるだろ?」

一人でも生きて行けそうだよなと込めて、悪漢達を追い払い終えたフリットの頼もしい背中をディケは乾いた目で見遣る。異性という認識はあるが、そういった目線から見てしまうのは、エミリーやユリンという女性達から感じる儚さをフリットからは感じられないからだろうとディケは思っている。

「俺からは可愛いとしか言いようがないけどな」

口籠もったりせず、すかさず返ってきた返答がこれである。お前は餓鬼なんだと付加された苦笑もあったが、嫌味ではなく、そのうち理解する日が来ることを知っているからこその表情だ。
微妙な顔をしたディケだが、その気になれば選り取り見取りなウルフがフリットのみを自分の側に引き寄せたいと考えていることの片鱗を見た気がした。

「そこまで言うなら、何でさっき加勢に行かなかったわけだよ」
「それが必要なら、手助けを求めるくらいはするだろ。しないなら、頼ることを覚えるのがフリットにとっての課題だ」

全てに構うつもりはないらしい。干渉しすぎたら、成長を妨げる原因になりかねないからだろう。
手を貸す貸さないの境目を確実に把握している人間はいないのだから、どう干渉を左右しようと、相手が積み重ねるものに余分なものが付着したり隙間が出来たりするのは必然のようなものだ。それでも、自分が関わったり関わらなかったりで、フリット自身が何かを得ることをウルフは確信しているような口振りで言った。

学友に礼を言われたのか、頭を下げる彼女達を前に遠慮がちに対応しているフリットを見る。中等、高等の時ほど周囲の人間がフリットの立場を理解していないわけではないことが伺えた。
自分の目に映るものだけが世界の全てと、思い違いの捉え方をしやすい時期というのはある。視野が広がるようになるには積み重ねが必要で、その過程を経れば、無意識下での取り違えた勘違いは軌道を変化させるだろう。
少なくとも、今の環境はフリットにとってマイナスではないとディケは思うし、先の捉え方に関してフリットもそこに当てはまる部分はあった。同じ事をディケにも言えるわけだが、彼は自分を棚に上げているわけではない。目線を水平にすることが、相手への理解に繋がることを既に見極めているからである。

そのような環境となってはいるが、フリットが知名度の高い有名人であるウルフから言い寄られているという事実は信じ難いとする意見もあった。現に、ウルフやフォックス目当てに二の足を踏み続けている女性陣がいたりもする。けれど、先程のフリットに対するウルフの態度や、そこからの二人のやり取りを目の当たりにしてしまえば、ともあれかくもあれ、ウルフには声を掛けられまい。
周辺に目を走らせた後で、このおっさんはその辺どう感じているのだろうなと見れば、何かに気付いた先に視線を固定させた瞬間であった。つられてディケもそちらに目を向ければ、ウルフと視線がかち合ったことに面食らうフリットの様子がある。
間を置かずして、フリットは顔ごと視線を反対側に逸らした。既に顔は見えないが、逸らす直前、遠目からでも朱を滲ませる表情は確認出来ていた。

フリットと向かい合うように立っていた学友の女生徒達が礼以外のことを口にしたのだろう。内容は何となく判る。ウルフに関することなのは確かであり、それでフリットがウルフを視界に入れたのだ。直ぐに視線を外すつもりだったのだろうが、予想外にもウルフが間髪を入れず視線に気付いてしまったという具合と推測する。
校内でフリットはあのような反応をすることはない。ウルフがいないのだから当たり前のことであるが、それが今は違う。
だからこそ、いつも目にするフリットの様子と違うことに女学生達が色めき立ったようにはしゃいで彼女に詰め寄った。

「ウルフ・エニアクルとは何処までの関係なの!?」
「アスノさんって意外とワイルドな人がタイプだったんだ!」
「さっきも両手繋ぎ合ってたものね!」

目を白黒させてどう対応すれば良いものなのかとフリットは戸惑い、彼女達が口々に言う言葉の一つ一つに茹だるような熱が一気に来た。同じ講義を取っている彼女達は顔見知りではあるものの、今まで言葉を交わす機会はあまりなかった。
先程の悪漢達を見事なまでに追い返したフリットの精悍な姿は形(なり)を潜めて、「あ」とか「う」など言葉を成り立たせず、声とも言い難いものだけが口から零れている。
そんなフリットの表情や動きに彼女達は顔を見合わせて、ほほぅと口に手指を当てて想像や憶測を共有する。こちら側の質問攻めに対して言葉での返答が無くとも、伝わってきてしまうものはあるということだ。

彼女達はまだ訊き足りていないと再び口を開こうとしたが、完全に黙り込んでしまったフリットの背後に立って、パーカーの襟首を引っ張る者がいた。
後ろに引く力にバランスを崩し掛けたが、それに合わせて足を後ろに退いて立っていることを保ったフリットは首を捻って背後を振り返る。そうではないかと思っていたが、ウルフがそこにいることに若干の驚愕を得る。

「勝手に連れてくが、構わんな」

断りを入れているが、連れて行くのは強制だ。そんな物言いにその場にいる者達が面食らうが、呆けたように皆が頷いた。

フリットの襟首を掴んだまま、ウルフは彼女を引き摺り去っていく。大人しく引き摺られるがままにさせるフリットではなく、襟首を掴まれていることでわたわたとした足取りになるが、ウルフの後を追うようにしつつ機嫌の悪そうな顔を彼に向ける。

「そうやって引っ張るの、やめてもらえませんか」
「上着を脱げばこうはせん」
「それはそれで今度は髪を引っ張るでしょ、貴方は」

それもそうだなと、ウルフはフリットから手を離した。つま先立ちになっていたが、踵を落ち着けるようになる。安定感に息を吐いて、その後にフリットが見上げる先には真顔になっているウルフがいて、彼女は身を固くする。
あの場からどう切り抜けるか思案も出来ずに、動けなかった此方を見かねて助け船を出したウルフの意図が分からないわけではなかった。けれど、彼との関係について明確に言葉に出来ないことを心疚(こころやま)しく感じている部分があり、受け入れきれないものがそこにあった。

ディケにはああ言った手前、フリットがどうするか傍観を決め込んでいたウルフであったが、慣れていないことは一目瞭然だった。数度あることならば対処の仕方も何かしら持っているものだが、複数人に詰め寄られるのはフリットにとって滅多にあることではない。
一気に来られたらどうしようもないかと、ウルフは行動を起こしたというわけだ。その辺の弁(わきま)えはあるディケも制止させようとする動作はせず何も言わなかった。
彼らとも距離のある場所までフリットを連れてこれば、いつも通りの応酬となる。が、彼女から手を離した後で様子が変わった。
緊張とも取れるが、それとは少し違う。

「あの、ラーガン達に一度報告を入れる時間なので」

端末は所持している為、常時連絡し合えるが、複数人での情報交換として一度臨時の連邦本部に出向くことになっている。
視界に入る時計台の針は予定の時刻に近づいていた。
いつもの口振りではなく、緊張の混じる調子のフリットにウルフは何を言うでもなく、その背中を行ってこいと促すように押した。

そのままウルフから離れていくフリットの様子を遠くに置き、太陽光の日差しから目を守るため、手を水平にして額近くに添えて顔に影を作るエミリーは進展無しのようだと手を振る。

「ウルフさんって手が早そうに見えて、慎重よね」

呟けば、フォックスが苦笑した。

「頭に血が上ったアイツは俺も見たことないからな。割と冷静に周囲を見てるぜ、ウルフは」

レースでの話だが、モビルスポーツに乗っている人間の性格は動きにも出てくる。コースの立地や障害物など、その場その場で機転を利かせた動きを瞬時に可能とするのは勘以外のセンスも必要だ。
お灸を据えるとかでレース関係者を殴って捨てるようなこともあるが、我を忘れる程に暴れるようなことはない。相手の精神面を考慮してセーブをかけるからだ。

「けど、あのお嬢さんには少し手こずってはいるか」
「フリットの態度も以前と比べたら大分丸くなったんですよ?」

初対面の次の日にトップニュースにされていたのだから、フリットの機嫌が悪かったのはエミリーも納得がいっている。アリンストン基地にウルフがやって来たときなどは逃げ回っていたものだ。それらと比較すれば、やはりフリットはウルフという人間を受け入れることを認めてしまっていると感じられた。







浜辺の一角に建てられている合成木造のバンガローの中に入れば、振り返ったラーガンが瞬くのが目に入った。
そういえば最初に打ち合わせをした時はパーカーの前を閉めていたから水着を見せていなかったと思い至り、少しばかり恥ずかしくなる。パーカーの裾を掴んだフリットに気付いてミレースが近寄っていく。

「可愛い水着ね。パーカー着てたら勿体ないわよ」
「いや、腕章付けておかないと」
「私と同じ首から提げるネームプレート型のもあるけど」
「大丈夫です。端末も持ってないといけないですから」

遠慮するフリットに彼女らしいと納得しつつ、今一度身に着けている白い水着を見て、フリットはあの男に取られてしまったかと親のような気分を味わう。同じような心境なのはミレースだけではなく、結婚出産育児が落ち着いて軍に復帰したクライネも目を細めてフリットを見つめていた。
そんな彼女と目を合わせたミレースは、視線で婿いびりをしましょうと持ちかけて、にっこりと微笑み返すクライネから同意を得た。無言のやり取りにフリットは首を傾げ、ラーガンと彼が受け持つ隊とクライネの隊に所属するメンバーは不穏な空気に顎を引いた。
ラーガンの咳払いで気を持ち直した皆は、各々が対面して処理したトラブルを報告し、トラブルの頻度が多い場所を検討し、パトロールの配置換えをする。

「僕は今までと同じで良いんですか?」
「ああ。モビルスポーツ組合から連絡も来てるしな」

ウルフ達が此方に来ていることも筒抜けているのかと、フリットが溜息を零せば、ラーガンは苦笑を混ぜて続ける。

「あと、お前の大学と宿泊先が一緒だそうだ」
「えっ」

息を詰めたフリットは顔を上げてラーガンを真正面に見れば、事実だと頷き返される。

「講義が終わったら、ラーガン達の所に行っても良いですか?」
「大学の方で班割りされてるんだろ?」
「そうですけど……」
「なら、残りの大学生活を大事にしなさい。ってことだ」

モビルスポーツ関係者と宿泊先が同じだからと言って、顔を合わせるとは限らないかとフリットはその場は大人しくラーガンの言に頷くことにした。







宿屋となっているホテルの四人部屋の一室。エミリーと、同じ講義を取っている女生徒二人と同室になっているフリットは自分用に割り当てられたベッドの上で荷物の整理をしていた。他の三人も同様のことをしている中、インターホンが鳴った。
エミリーが率先してドアに向かう。暫くしてドアを開ける音がした後、エミリーが戻ってきてフリットを呼ぶ。

呼ばれたフリットがベッドを下りてドアの方を見遣れば、ウルフがドア先で待っている。どういうことだとエミリーに視線を向けるが、彼女は此方の背中を押しやって早く話してきなさいと急かすだけだ。
同室の二人も興味深そうな視線を向けていることに萎縮しつつ、フリットはウルフの目の前まで歩を進める。

「何か用ですか」
「……相談事」

ウルフが相談とは珍しいこともあるものだと、フリットは首を傾げそうになるが、次の言葉に表情を一変する。

「軍人としてのお前に用がある」
「明日のレースで気に掛かることでも?」
「まあな。それでお前の意見が訊きたい」

それから二、三言交わしてフリットは背後を振り返って少し出てくると言って、ウルフとドアの向こうに行ってしまう。

「連れてっちゃった」
「先生何時に見回りに来るんだっけ?」
「二十二時じゃなかったかしら」

答えつつ、気にしてはいても詮索をしない彼女達と同室になったのは幸いだったとエミリーは思う。

部屋を出てホテルの清掃が行き渡った通路を隣に並んで歩いていたが、フリットは視線に気付いて顔を上げた。
何か。と、視線で問えば、ウルフは聞くまでもなく予想はそれほど外れていないだろうと首を横に振りそうになる。だが、フリットが問うてきているのだから、構わないかと口を開く。

「目の少し下。どうしたんだ?」
「フォークが擦っただけですから、大したことないですよ」

ドアを開けた時に此方の顔を見たウルフが一瞬表情を変えたので、フリットは左目の下にある絆創膏が覆う傷について訊かれるかもしれないと身構えていた。先延ばしになってしまうよりは今が良いのだろうかと、自分から催促したようなものだ。
けれど、ウルフは何となくでも解っていたのかもしれない。尋ねてくるまでに少し間があったのはウルフなりの気遣いだろう。

「誰にやられたか当ててやろうか」

おそらく、これも。トーンを落とさず、からかいを含ませる口調は気兼ねなく会話出来るようにだろう。こういう所があるから撥ね付けることが出来ないのだと、自覚を含んで「どうぞ」と先を促した。

「あのナンパ男共だろ」
「正解です」

自分のような髪の色は珍しく、それなりに目立つ。水着から私服に着替える時にいつもの三つ編みに戻したが、高い位置で結った髪は今以上に目についただろう。
軍人の腕章を付けていても、小娘相手に恥をかかされたのだ。広い海水浴場では同じ人間と二度以上すれ違うのも稀だろう。気付かれなければ、あの悪漢達もその後は平穏に一日を過ごしたのではないかとフリットは思う。
しかし、此方に気付いた彼らは浜辺に設置された軽食屋の食器を手に報復しに来たというわけだ。

一応、弁解として、それなりの制裁をフリットが加えたことを記しておく。通常のナイフよりも殺傷能力が低い武器で、ラーガンらと同じ訓練を受けているフリットが大怪我をすることは考えられない。
擦っただけだとしても、甘んじて受けたのは、回避場所に母と子の親子がいたからである。

「あんまり顔に傷作るなよ」
「ウルフさんが気にすることじゃないでしょ」

言った直後に肩を掴まれて横を向かされる。ウルフも身体ごと此方を向いて、向き合った形になる。頤を取られて強制的に上を向かされるフリットは息を詰める。

「勝手なことを言うな」

狙いを定めるように、眇(すがめ)が射貫いてくる。

「お前が一人で何でもそつなくこなすのは嫌でも知ってる。だがな、自分が正しいと全て決めつけるな」
「別に、そこまで決めつけで言ってるわけじゃありません」

納得しかねると顔を歪ませるフリットに、ウルフは一気に干渉するつもりはなかったと自分に上辺ばかりの断りを入れて、頤の傾きの度を上げる。触れた。
突然のことにフリットは指先から全身へと力を入れて硬直する。けれど、硬くした身とは裏腹に柔らかいものが触れて中に入ってきていた。

そんな雰囲気は欠片もなかったはずだ。自分の経験不足だとしても、我を通そうとしているのはウルフの方ではないかと、口付けに応えるフリをして相手の下唇を噛んだ。

「…ッ……、」

顔を離したウルフは口元を手で覆い、傷口を舌で確かめる。痛覚と血の味に眉を顰めるが、落ち着いている部分はこの程度かと感じた。じんと痺れる感覚が薄いことから、強く噛みすぎないように遠慮したのは明白だ。
フリットにとって不明瞭な点が多すぎるというのも関わっているだろうが、傷を付けるなら遠慮などいらない。

戸惑うというより、不可解だと訝しんでいる視線にウルフは手の甲で口元を拭って、改めてフリットと向き合う。

「他の男がお前に傷を付けるのが気に食わん。それだけだ」

言って、先に行くウルフにフリットは真意が掴めず、慌ててウルフの後を追いかける。
噛んだことを咎めるわけでもなく、突然触れてきた理由さえ教えてくれないウルフの背中を見るが、遺憾の色は見えない。
ウルフが口にした言葉は大事なことのように思うが、どういう意味合いを持つのかが今ひとつ捉え所がないと感じて、フリットは何も聞き返さなかった。

レースの前夜祭なのか、ホテル内にあるレストランを貸し切りにしている中にウルフに続いて足を踏み入れれば、クラッカー付きの盛大な歓迎に面食らう。
音がするのではないかというくらいに、パチパチと瞬きをしたフリットは疑問符を浮かべて周囲を見渡す。

「やっぱ華がないとな。お手つきだけど」
「生の女子大生は貴重じゃないか。お手つきだけど」
「若い軍人さんが俺らを守ってくれるぞ。お手つきだけど」

最後に付け加えられる言葉が皆、同じなのは如何なものか。この歓迎の体勢はどういうことなのかを訊きたかったが、フリットは彼らの反応に何も言えなくなり、口を薄く横に広げる。

幾つかある丸テーブルを囲んで彼らは椅子に座しているが、チーム別に分かれたりしているわけではなく、好きなように席を選んでいるようだった。別の席に移ろうとしている者もおり、法則性はないが、まとまりの中で自由にしている印象である。
先程言われた言葉は無かったことにしようと、改めて周囲に感想を持ったフリットは学生の集団とも違い、ましてや、軍の中とも違う持ち場を得ている彼らを少し不思議に思う。

周囲に会釈を返しながら、ウルフに続いて奥のテーブルに向かう。彼が椅子を引いたテーブル席には先客としてフォックスの姿がある。その隣にウルフは腰を下ろし、フリットを見遣ってお前も座れと視線で投げかけてくる。
そのまま座れば良かったのだが、先程のことが引っ掛かっていることに加え、彼に従うのは何か癪だと立ったままでいた。すれば、フォックスが珍妙な顔でフリットとウルフを交互に見遣り、気付いた。狼の口元に噛まれた痕があることに。
こいつは何をしてんだかなと、フォックスは内心で呆れる。フリットを連れてくるように率先して促したのは自分だが、彼女には悪いことをしてしまっただろうかとも思う。

「すまんね」

言われ、フリットは目を瞠った後で、視線を落として席に着いた。ウルフから一つ分の席を空けた位置だ。
遠巻きに此方を伺っている別テーブルにいるチームメイトらが首を傾げているのが、フォックスの席からは見える。ウルフが何も言わないことにそこはかとなくやりずらさを感じもする。

「お嬢さんも何か食べるか?」

メニューリストを手にしたフォックスが尋ねるが、フリットは首を横に振る。

「いえ、もう済ませてあるので」

ホテルでの講習会の後、学生らはバイキング形式の夕食を用意してもらっていた。空腹感はないからと、フリットは遠慮する。そうかと頷いたフォックスは俺らも済ましたしなと、注文はせずにメニューリストを隅に置いて、代わりに地図をテーブルに広げる。

「だいたいはウルフから聞いてるか?」
「この間のレースの件があって、組合の一部で神経質になっているということだけ」

“ミンスリー”の治安は安定している。故に、今回は軍に護衛などを頼んではいない。もし、頼んだとしたら、観客がいらぬ警戒をして客入りが悪くなると踏んでのことだ。
それでも不安が残っている組合は、アリンストン基地のモビルスーツ部隊が“ミンスリー”に訪れる日を選んでレース日程を調整した。
そこまでをフォックスの言葉で聞き、色々と被ったのはそのせいかとフリットは一息を吐いた。

「予想で構わないんだが、アスノ少尉はどう見る?」

士官学校レベルの課題をフリットはとうに済ませてあるため、軍に入隊すれば階級は少尉からだ。けれど、まだ正式に決まっているわけではない。だから、まだ少尉ではありませんと言ってからフリットは地図に視線を落とす。

「海から少し離れた、リゾート地の近くで工事をしてますよね。あそこなら工事の音と鉄格子や金網でいくらでも偽装は出来ると思います」

大規模な工事現場であった。知らない人間が紛れ込んでいても、同じ作業着を着ていたら分からないだろう。手薄になっている場や地下などがあれば、モビルスーツの類を格納することも可能である。

「お前の意見と一緒だな」

フォックスがウルフに視線を向けたことにフリットは驚き、次には退屈そうな顔をして声を落とす。

「僕がここに来る必要はなかったんじゃないですか」
「俺のだって予測にすぎん。お前の意見があって、やっと説得力が付加される」

ウルフの言にそれなりに信頼を置かれていると思っていいのだろうかと、フリットは顔を僅かに上げたが、それは自惚れだと元に戻した。

「本音言えば、顔見たかっただけだがな」
「え」

元に戻したはずの顔を上げるはめになって、フリットはそうした自分の行動を直ぐさま悔やむことになる。此方に顔を近づけてきているわけでもないのに、覗き込まれているような蒼い視線に言葉が出なくなったからだ。
先程とは違う自惚れを抱きそうになって、否定するけれど、頬どころか耳まで熱を感じる。今、自分がどんな顔をしているのか手を伸ばした。だが、その手首を取られ、フリットは見上げる。

「そういう顔は自制しきれなくなるだろ」

言われても、確認しようとしていたのを止められたのだから、理解しきれなかった。自分で触れようとしていた顔に節張った手が触れてくる。否が応にも、シーツ上でのことを思い出さざるを得なくて、フリットは身を退こうとしたが、一人掛け用の椅子の上では効果はないに等しい。
親指の腹が左頬を上へと辿っていき、絆創膏を撫でるように触れる。その行為に一瞬気が緩むが、直ぐにフリットの身体は強張った。

「ッ、痛……ぃ」

傷が覆われているとはいえ、そこを力を入れて押されたら痛覚が刺激される。止血していた傷口が開いた感覚にフリットは歪めていた眉をどうにか立てて、ウルフの手を掴まれていない方の腕で内側から振り払った。

「何をするんですか!?」
「傷の上書きだろ」

悪びれた様子もなく、平然と投げかけられた言葉にフリットは思考が停止した。先程からウルフの言動は分からないことだらけで絶句するしかない。自分の常識は他人にとっての非常識とはよく言ったものだ。今まさに、他人側として当を得ている。
フリットは自分の右手首を掴んだままのウルフの手を不機嫌に矯(た)む。思考が起動し始めてフリットはウルフの顔をちらりと見遣る。

「用は済みましたよね。もうすぐ見回りの先生が部屋に来る時間なので、戻らせて下さい」

右手が自由になり、フリットは椅子から立ち上がった。ウルフが着いてこようとする気配にフリットは仰ぎ振り返る。

「一人で戻れます」

ふいっと顔を正面に戻して、フリットは足早に出入り口までの道を急いだ。
三つ編みの後ろ姿が見えなくなったところで椅子に荒っぽく腰を下ろし直したウルフにフォックスは呆れと咎めを含んだ視線を寄越した。

「あの子にそういうの理解させるのに、さっきのやり方は雑だろ」
「理解しろなんて考えてねぇよ」

ウルフの返答にフォックスは頭を掻く。理解は求めてないが、相手のペースも考えずに手段に出るのは些か感心出来ない。

「誰かに獲られるとでも思ってるのか?」

無言だった。険悪な会話は望んでいないため、冗談を強めに言ったつもりだったのだが、この反応は予想に反する。

「あのお嬢さんはお前のこと好いてるだろ」

海辺でのことを思い返してもそうであると確信はあるし、それ以前の頃から好意はあるように見えている。自分がそう感じているのだから、周囲もそうだ。此方のやり取りや会話に耳を欹(そばだ)てていたチームメイトらも、不思議そうな顔でウルフに視線を向けている。
それに、奪われたとしても、奪い返しかねないのがこの男だ。不動の頂点に立つ白い狼が女一人を手中に収めるのは容易いことではなかったのか。

「獲られるとかの類は想像もしてないが。ただ、前より子供っぽくなくなったのが、どうしてもな」

いつ箍(たが)が外れてもおかしくはないのだと、ウルフは眉間に皺を寄せた。
精神年齢で言えばフリットは昔から同年代と比べれば高めだったが、見た目はそうではなかった。重点を置くなら内面なのだろうが、視覚があるのだから外見を意識から除外するのは難しい。
なんか小さいなと感じていたからこそ、ベッドを共にしたいという感情はまだなかった。けれど、それが変わった。
心変わりではない。それはないと思い込んでいたに過ぎなかったのだ。

「成長を見てきた分、やりずらいってか?」
「それも、あるかもしれんが……結局の所、出鼻をくじかれたのが占めてる」
「あのレースの時か」

尋ねずに呟いたフォックスは、ウルフがそこに関して勘ぐられていることを承知でいるのを見て、割り切り出来る奴なんだがと肩をすくめる。
否定は返ってこないので、此方が立てている予想も大きく外していることもないだろう。

「本当にもうお手つきか」
「最後まではしてねぇよ」

揚げ足を取るようではあるが、最初の方はしたわけだよなと、フォックスは暫し考える。

「理解を得られなくても、知るべきことってのは在る」
「……お前の言葉らしくないな」
「勿論、受け売りだ」

僅かな沈黙の後、ウルフは席を立った。勘が良いというより、言葉の匂いを嗅ぎ取っただろう背中を見えなくなるまで見送ることはせず、フォックスは明日の勝負へ馳せる。






絆創膏に血が滲んでいたら、エミリーがどうしたのかと訊いてくるだろう。壁にぶつけたか、転んだか言えば納得してくれるだろうかと、フリットは言い訳を巡らす。
事実を伝えても問題ないとは思うが、説明しきれる確証が持てないとウルフの奇矯を思い出して表情が歪む。

煩わしいと思うのに一緒にいるのは嫌ではなくて、気持ちが高ぶっている自覚があった。あの人がよく分からないことをするのは毎度のことだと割り切ってしまえばそれまでだが、翻弄されている身としてはどうか。
痛みを避けたいのは本能的なもので、間違いではない。傷に勝手に触れられたことから、前触れのない口付けを引き剥がすために相手を噛んだことへと思考を移す。

「何も言わなかったな」

此方が歯を立てたことについてだ。
自分の思惑と違えば、そぐわなかったことへの咎めの言葉が来ても妙ではない。
噛まれることが予想の範疇だったとでもいうのか。それとも、不機嫌になりすぎて何も言わず、此方の傷を抉り返したのか。

意味もなく行動するような人ではないという認識を持っているが、今回ばかりは少し戸惑っている。
明日、顔を合わせてもいつも通りに接することは出来るだろう。けれど、釈然としないものを抱いたままだろうな、とも。
後ろ髪を引かれているわけじゃないと胸中で言葉にして、ふと、後ろを振り返り、フリットは目を瞠る。

「お前も追いかけてきて欲しいとか思うんだな」
「違います」

否定するが、自分でもそういう気持ちがあったのではないかと、発言に自信が持てなくて尻すぼみになる。

「ところで、何か用ですか?」

身構えるようなニュアンスで言うフリットに、自分の譲歩不足をウルフは痛感する。勝手に出来る相手ではないことを分かっていたはずだった。

「変わりたいか、変わりたくないか。お前はどっちだ」
「え?……まぁ、良い方向に変われたらとは、思いますけど」

同じであることも変化もそれぞれ善し悪しがある。常に「善」を選択し続けるのは普通に考えて無謀であるため、理想としての意見が出る。その後に、考えをまとめた言葉を続けていく。

「そもそも、その二択だと、今まで通りを留めておきたいことと変化を持たせたいことが別のものである場合には通用しませんよ」

言っている間に目の前までやってくるウルフを見上げて、フリットはこの答えならどうだと視線で伺う。

「優等生の意見だな」
「どうも」

褒められているわけではないのはウルフの表情を見れば一目瞭然であった。だから、付き合いとしての言葉を目線を落として面倒そうに返す。

「フリット」

無視すればいいという声が内側で囁いたけれど、構うことなくフリットはもう一度ウルフを見上げた。
右頬を捕らえられる。傷があるほうではないので、警戒心はない。

「変わる変わらんは、正直、俺もどうでもいい」

そんなものは本人の意思とは関係無く、変わらないものもあれば、変わるものもある。風景が変わるのは自分の意思ではない。風景が変わったと感じるのは自分の感情だ。世の中の流れの一部であり、全てを構成する一つとしてそこにいつもあるものだろう。
だが。

「他の男がお前を変えていくのは気に食わん」

同じようなことをさっきも言っていたなと、フリットはウルフの言葉を頭の中で重ねる。傷のこと、それで間違い無いのだろう。

「僕を傷つけていいのは、ウルフさんだけだと言いたげですね」
「そういうことだな」

間髪入れずに返ってきたものにフリットは口を引き結ぶ。何故、嫌悪が湧かないのかの理由が分からない。

「貴方がそう思うのは、別に構いませんけど」
「ナイフを手に持っていたとしてもか?」
「いや、それは勘弁して下さい」

頬にあるウルフの手をはたき落とした。軽い力でその手が引き剥がされたのは、冗談だったからだろう。

「そこまではしないな。傷は残すものじゃない」
「塞がり掛けてた傷を開いた人がよく言えますね」
「あの場で絆創膏剥がして傷口を舐めても構わなかったか?」
「………困ります」
「今は構わんよな」
「え、」

一歩前に出られ、フリットは後退し、それの繰り返しで壁に追いやられる。ウルフが覆い被さるように照明から影を作った。
皮膚に貼り付けられた粘着をやにわに引き剥がされて、傷まわりが熱を持つ。
頤を親指で固定され、右頬を残りの指が覆う。

すり寄るように顔を近づけてくるウルフに左手で左側面の自らの顔をガードしようと持ち上げれば、相手の右手が此方の手を壁に押しつけた。手首を押さえ込んでいた掌が明確な意思で動き、互いの指と指を絡め合うようにしてフリットの左手がウルフの右手によって壁に縫い付けられる。
この繋ぎ方は……と、フリットは感触につられて横目にそちらを確認した。胸が詰まるような思いにその手を引き剥がそうと自由な右手を向かわせるが、それが届く前にウルフの口元が左頬に触れる。
左目を閉じたフリットは、体温を感じる唾液を含んだ舌が傷を抉るように舐めあげた直後、身体を震わせた。痛みと、ウルフによってもたらされる感覚に。

鼻腔を揺らしたウルフはフリットから僅かに顔を離し、頬からも手を離す。目についたフリットの右手を反対側と同じように絡み取って押しつければ、彼女は瞬く。
絡める手にウルフが少しだけ力を込めれば、フリットは顔を彼に向き合わせた。降りてくる相手にフリットが目を伏せようとすれば、ウルフは動きを止め、暫しの後に退く。 その行動にフリットは言葉になっていない声を零し、閉じる。
両手を離そうと力を緩めたウルフの手を、今度はフリットが掴み返す。目を瞠った後に眉を歪めたウルフに不安になったが、フリットは彼が先に何か言う前にと口を開く。

「無かったことに、なっていますか……」
「フリット?」
「海で、言ってたじゃないですか」
「ツケのことか?」
「……はい」

頷くフリットを見下ろし、自制した自分の行動がいらぬ誤解を招いたことに頭を掻きたくなったが、どちらの手もフリットが掴んだまま離そうとしていない。本人はそれほど意識していないのだろうが、離れ難いという感情が表に出ている。

「チャラにした方がお前にとっては良いんじゃないのか?」
「そう、なのかもしれません。けど、なんか……釈然としなくて」

自分でもよく分からないと、フリットはウルフを見つめる。そうすれば、分かるのではないかと言いたげに。

「そのままが良いか?」

先程、自分は良い方向に変われたらと言った。それが言葉を噤(つぐ)む原因となって、フリットは迷い戸惑う。

「そのままと変わりたいことが別なら通用しないって言ったのはお前自身だろ」
「そうは言いましたけど、それは僕の意思として言ったわけじゃなくて」
「なら、そのままの先にある変化に期待してろ」
「どういう意味ですか?」
「俺はお前の全身を嬲(なぶ)り尽くしたい」

言った後、顔を引きつらせたフリットに言葉を少し選び間違えたとウルフは思うが、だいたい合っているから問題は無いと訂正せずにいれば、フリットが間を開けてから言う。

「あの、答えになってないんですが」
「俺がいつもそう考えてるってことだろうが」

あの一夜を無かったことにしたくないと、戸惑いながらも主張するフリットをどうしようもなく自分のものにしたくなる。
理解してもらわなくても構わないと思い、此方がやった行動の数々がフリットの中にあった不安を濃くさせてしまったことは省察(せいさつ)せねばならないことだが、現状に浮き足立っていることも嘘ではない。

「それなら、さっきは何で、ッん……」

全てを言い切る前にウルフは自分のそれでフリットの言葉を塞ぐ。言葉より此方の方が手っ取り早いというのは建前にすぎないだろう。人並みに忍耐はあっても、それすら覆すほどに渇きを潤したかった。
フリットの指に力が入り、ウルフは握り返す。指と指の間の隙間を埋めるように繋がれる互いの手指は、温もり以上の熱を抱く。
そして、二人を繋ぐもう一つのそこは、いざそうなってしまうと積極的に受け入れる体勢が取れないフリットが首を横に振る。構わず、ウルフが彼女の唇を舐めれば、フリットは迷うような顔をしつつも逃げることを止めた。

その様子を見て、狼に気を許しすぎだと内心で苦笑してしまう。けれど、それを表に出すことなく、ウルフはもう一度フリットの花唇(かしん)を塞ぎに掛かった。食(は)み合うように誘導すれば、フリットも汲み取るが、応え方は辿々しい。
時折、ほてる吐息が互いの間で零れるのを耳朶が拾う。
身に力が入らなくなってきているフリットを解放するが、改めて彼女の腰を引き寄せ、額に額を擦りつける。

「傷ってのはな、痕を付けるものじゃなく、刻むものだ」
「突然、何ですか?」
「俺という存在をお前に刻み込みたいって話だろ」
「………だから上書きとか、そんなことを言ったんですか」

正直、理解に苦しむ意見だ。刻み込むようなことをしなくても、自分の中に貴方は既に入り込んできているのだと言い返したかった。けれど、これは相手と同じようにフリット自身としての意見であり、口にせず、ウルフの言葉を頭の中で何度も繰り返して把握しようとする。

「痛みを伴ってでも刻みたいというのは、やっぱり分かりません」

それでも、否定はしきれず、ウルフの言はある観点から見れば正しいのかもしれない。ただ、相容れない考えを持ち合わせていても、ウルフなら良いと思ってしまっている自分に気付いて、口にした言葉とはあべこべだと感じられる行動をした。フリットはウルフに抱きつくように彼の背にしがみつく。

「お前はそれでいい」

フリットが我を忘れて無意識のうちに爪を立てれば良いと思うが、それは自分の技量次第かとウルフは苦笑する。けれど、想像上で可能としているのだから、実際でも可能とする自負は十分にある。
共存に必要なのは相互理解である。しかし、理解し合えなくても、互いを認識することは可能であり、拒絶以外の関係を構築出来るのが人というものではないだろうか。
互いの体温を感じ取り、ウルフが側にいることをフリットはそでに出来ないところまで来ていた。

「あの、ウルフさんも、僕から傷が欲しいと思っているんですか?」
「そうだとしたら、お前はどうする」

こういったことに関してフリットが頭を回すのは希有なケースであり、ウルフは珍しいこともあるものだと彼女と視線を合わす。が、相手の視線は此方の目でなく、それより下にある。
辻褄を合わせていく上で辿り着いたのだろう。物事の流れを組み合わせることには長けているのだった。それでも、ひとりの人間を相手にそこまでするとは思っていなかった。

「ウルフさん」

呼びかけ、フリットはウルフの肩と首後ろに手を伸ばした。踵を上げて、重心を不安定にさせれば、僅かにウルフが前屈みになる。自分が噛んだその痕へと舌を這わす。
傷を色づく舌先で撫でるように二度舐め、踵を下ろした。
これが答えです。と、口にするつもりだったが、自分のしたことが恥ずかしくて、フリットは口を閉ざしたまま、俯き加減で見るなとウルフの胸にまた顔を押しつけた。
所有権を主張するために傷を付ける性分ではない。噛んだのはウルフの考えに何一つ、見当が付かなかったからだ。だから、知った上で、傷跡以外の方法で自分は刻むことを行動で示した。

「敵わんな」

柄にもなく面はゆさを感じて、ウルフはもっとくっつけとばかりにフリットの身体を抱き寄せた。苦しかったのか、身じろいだフリットだったが、息を吐ける位置を確保したようで大人しくなる。

「けど、俺はお前をそんなに優しく扱えないぞ」
「ウルフさんが優しくなかったことってありましたか?」

顎を上げるようにして不思議そうな視線を寄越してくるフリットの言に、ウルフは二の句が継げなくなった。価値観が随分と食い違うが、フリットがこうだから自分の側にいることを厭わないのは感じ取っていた。けれど、いざ、そのまま言葉にされると自分はそこまで善人ではないと内心で否定の言葉を綴る。言ったところでフリットは首を傾げるだけだろうから、言葉を返すのではなく行動で返した。これでもか、と。
上着のパーカーと黒のシャツの左肩をずり下げ、顕わになった首と鎖骨の白肌に牙を立てた。
消えて無くなろうとも、覚え続ける傷跡を。












夜が明けた次の日、何か周囲から感じる視線がいつもと違うことに気付いていたが、フリットはそれほど気にもせずに二日目の日程を確認しつつ、教員の言葉を耳に入れていた。
それを一通り聞き終えて、ラーガンかミレースに連絡を入れようかと端末を手にした時だった。

「フリット、ちょっと」

エミリーに後ろから肩を叩かれて、何事かと振り返る。何かを耐えているというか、神妙な顔をしているエミリーは内緒話でもするようにフリットの耳元に唇を寄せた。
じっと彼女の言葉に耳を澄ませていたフリットは、エミリーが言えてすっきりしたという顔をして一歩離れても、そこから動けずにいた。
エミリーに言われたことを頭の中で反復すればするほど、フリットの顔色が冴えなくなっていく。
見られていたのだ。誰にかは分からないが、ホテルの通路など誰が通っても自由である。そんな場所に留まっていたのがいけなかった。
一部始終まで把握されていたわけではないようだが、ウルフと抱き合ったり何だったりをしていたことが此処にいる生徒の大半の耳に入ってしまっているということだった。

赤くなったり青くなったりを繰り返しているフリットは、元兇の相手であるウルフを含むレーサー達が同じロビーにやってくる足音と会話の声が遠く聞こえてきたことに身体を強張らせた。
近づいてくる音にフリットは目に着いた間近にあるソファの影に隠れる。そんなことをしても意味がないのではと、エミリーが肩をすくめたところで集団から出てきたウルフが誰かを探す素振りで学生の中に混じってくる。

「フリットは軍の方に行ったか?」
「えっと、それが」

口をすぼめたエミリーにウルフは鼻梁(びりょう)を揺らしてから勘づいて、周囲に目を移す。視界に見知った髪色を見つけたが、そちらに足を向けることはしなかった。

「まあ、用があるわけじゃないしな」

伝言はないと去っていくウルフの背中を一度見てから、エミリーはソファに歩み寄った。蹲っているフリットを見下ろして問いかける。

「いいの?」
「出て行けるわけないだろ……」

自分が何処にいるかなんてウルフには気付かれて当然だった。けれど、敢えて声も掛けずに踵を返したのは、周囲の目が昨日と差があることに気付いたからだろう。
気遣われていると思う。それを無下にしたくない気持ちもあり、余計に顔を合わせられない。
じわりと左肩が熱を持ったようで、右手でそこを押さえた。

端末が通話を要求して振動したことにフリットは驚いたが、直ぐに冷静さを取り戻して通話許可の操作をする。
相手はラーガンであり、モビルスポーツ会場までレーサー達の護衛を頼めるかという内容だった。無理なら、別の誰かを向かわせるようだ。断りの言葉を口にしかけたフリットだったが、承諾する返事をしていた。
通話を終えたフリットは端末を仕舞って立ち上がる。内容を側で聞いていたエミリーは苦笑しつつ、いってらっしゃいと見送ってやる。

周りにどう思われているのか、微塵も気にしていないわけじゃない。どう見られているのか、それらを鑑みて行動することはある。
それでも、あのように心馳せを見せる人だから、距離は置きたくないと強く思ってしまう。一度は無理だと身を潜めたが、ウルフに与えられた傷跡が疼いた。

護衛の話を通すのは誰でも構わなかったが、歩みを真っ直ぐに進めた。白の後ろ姿に呼びかける。

「ウルフさん」

気兼ねなく振り返る彼から、虚を突かれた様子は見受けられない。気遣いに反していないことに安堵して、フリットはいつものように言葉を続けた。





























◆後書き◆

後半までお付き合いどうも有り難う御座います。

フォックスさんをがっつり書いてみたいという思いがあったので、出番多めになったかと。その分、ラーガンの出番が少ないのは気のせいだと思いたいところです(汗)
クライネさんは小説版でフリットが憧れを抱いていた女性パイロットですね。

存在意義だとか目指すものに迷いのないフリットに、ウルフさんは変われとかそういうのは言わないかもしれないなぁと。
アセムにもスーパーパイロットになれってのは、変化ではなく進化を示唆したのかもしれないとこれを書きながら思ってもみたりです。

短編のはずなのに、何かの続きみたいになってしまったので、前のレースで何があったかだけ補足を。
レース会場に現れたのはガフランとかヴェイガン製MS。戦争をけしかけているわけではなく、イゼルカント様の思惑もなく、ちょっとだけテロ寄りの攻撃ですね。デシルもいたという設定。
その後のホテルでですが、ウルフさんがフリットをベッドの上に押し倒して事に及ぼうとしまして。挿入手前でフリット寝落ちです。一日中気を張ったりMSで戦闘したりで疲労しているところに、更にイかされたりですからね。
そんな感じでしょうか。

Narbe=傷跡

更新日:2013/02/25








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